知識探偵クエビコ

人類史・古代史・神話の謎を探ったり、迷宮に迷い込んだり……

「日本列島人形成の三段階渡来モデル」について

前回の最後で、渡来民を二段階に分ける説が出てるという話をした。

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なお、今回の記事タイトルの三段階は、この新しい渡来民の二段階に、旧石器時代の最初の頃の渡来を一段階目に数えている。だから、合わせて三段階。 部分的には異なるが、大きな方向性はこの図の二段階説と同じだ。

 

斎藤研究室の主である斎藤成也先生は、この三段階説について詳しく書いている。

日本列島人の歴史 (岩波ジュニア新書 〈知の航海〉シリーズ)
 

そこで、タイトル「日本列島人形成の三段階渡来モデル」を付けられた、該当部分などをしっかり確認したわけだ。

 

さらに。

このタイトルで検索したら、インタビュー記事も見つけた。(出雲の話もしてた)

このインタビュー記事には、一番最初に出した図を段階別で詳しくした、本にあった図もある。(説明がついてカラーのため、本の図よりわかりやすい。リンク先の記事で大きい画像が見られます)

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そして次の説明が付く。これは本だともっと長い説明があるところだが、概略は同じだ。

第一段階は約4万年前から約4000年前(旧石器時代縄文時代の大部分)です。第一波の渡来民がユーラシアのいろいろな地域から様々な年代に、日本列島の南部、中央部、北部の全体にやってきました。

第二段階は約4000年前から約3000年前(縄文時代末期)です。日本列島の中央部に第二の渡来民の波がきました。第二波の渡来民の子孫は、日本列島中央部の南側において、第一波渡来民の子孫と混血していったことを示します。一方、中央部の北側と北部および南部では第二波の影響は、ほとんどありません。

第三段階は、約3000年前から現在までです。本州の中央部に第三段階で水田稲作の技術をもたらした渡来人が列島に入っていって、日本列島の中央部(福岡県、瀬戸内海沿岸、近畿地方の中心部、東海地方、関東地方の中心部)に移動していったことを示します。この段階では人口が急速にふえていきました。中央部が二重になっているのは、日本海や太平洋の沿岸に第二段階の渡来人のDNAが残ったのではないかということを示しています。

前半の約3000年前~約1500年前(弥生時代古墳時代)は北部と南部および東北地方では、第三波の影響はありませんでした。

後半の約1500年前から現在(飛鳥時代以降)になると、それまで中央部の北にいた人が北海道に移動していったり、中央部の南にいた人が沖縄に移住したりしました。北海道の北部にはオホーツク人が渡来するなど時代とともに混血が進みました。

ただし、 初期の移住者を一段階目として考えたためもあってか、前回の論文とは少々意味が違っている。

まず、第一段階は「いろいろな地域から様々な年代に」(南から北まで全体に)となっており、4000年以上前*1ならば旧石器時代から縄文時代まで、全方向の移住者すべてを含む表現になっている。

つまりここには、旧石器時代に入ってきた縄文人だけじゃなく、5000年程度前でオーストロネシア移民がいたとしてもまとめて含んでしまうはずの、実は一段階どころではない、かなりあいまいな表現になっているわけだ。

そのため、段階分けの意味も前回の論文とは違う、ということになる。

次の二段階目が、年代は違って北九州のような限定もない(本にも具体的な場所は書いてない)が、位置づけとしては前回の論文の一段階目にあたると考えられる。

そしてこの二段階目の第二波渡来民集団は特別扱いされ、三段階目の描写の中でも「日本海や太平洋の沿岸に第二段階の渡来人のDNAが残った」とされている。

ここで、一段階目に含まれた集団は中央にあまり残っていないと考えているようだ。

ただし前回の論文も今年の新しいものであるため、矛盾してるように見える部分で別の可能性も考えているのかも知れない。そういえば、二段階目に北九州の限定がないから、その部分で北九州以外の集団(南九州とか)の可能性を見ていることになるか?

 

実は自分の場合は、昔から指摘されている要素でもある、神話などに含まれる南方要素から、出雲に南方の民族集団(漢民族以外であれば良く、オーストロネシア系も含む)が絡んでいる可能性も考えている。

それなら、韓国や漢民族とは遺伝的に違う傾向が出雲に出ても不思議じゃないわけだ。

 

この南方由来説(たとえばこれとかこれとか)も、考えられてるんですかねえ?

 

12/19追記

なお、本のほうにも「出雲神話」というタイトルの一節があり、そこに問題の出雲データへの言及がある。

さらにそこには、「高天原が実在の地の反映であったならば、それは九州北部だったかもしれません」だとか、天つ神が九州北部の人々だった可能性がある、といった、可能性を限定しない表現の推測も書かれていたりする。*2

これは結果的に、天津神は大陸勢力でなく、実は「天」(アマ)=「海」(アマ)なのではないか、という可能性を示す(断言はしていない)説になっている。

もちろん、自称天津神系統だが実際は古くからの土豪系統だった、などという場合は、いろいろな氏族であり得るところだ。(相手が有力者ならば、周囲も確信犯的に自称を認めてしまうことになる。たとえば源氏を名乗った徳川家のように。この場合、源氏側も名乗らせて味方にしておいて損はないわけだ)

 

ついでに。

この記事の少し前には、「前方後墳の多い国(地方)」という表(国の単位は律令国もある。ここでも一番が出雲(41)で、さらに二番が上野(36)となっており、直接的な関係とは限らないものの、これはD1b1aが多いと自分が予測した二つの国そのままだ。(ただし三番目は出羽国分割後の陸奥の国(34))

なおwikipediaの項目には大きさを考慮した前方後方墳の数が出ているが、ここで問題となる愛知県もD1b1aがそこそこ多い側に入っている。

古墳を作っていた側土師氏が出雲の野見宿禰の子孫だから、どこかで関係あるのか。ただし、土師氏は前方後円墳とも関係する。また出雲は四隅突出型墳丘墓もある地域であり、作り手側としては頼まれれば何でも作るものかもしれない。そして、作り手氏族の多さそのものが各種古墳文化を広め、特に小型古墳の数を増やすことはあり得そうだ。(このとき、特定の形の古墳を選んで作らせた側が問題)

 

*1:具体的な年代に関しては、どんな学者先生も最新の学術的情報や判断を反映させて修正していくところであるため、変化することもあるでしょう。

*2:この本、結構「かもしれない」など可能性表現が多く、わりと自由に推理なさっているようだ。

意外な出雲データと、文化の変移のお話

斎藤研究室の2016年の論文に、出雲のゲノムを解析したPCA(Principal Component

Analysis.主成分分析)の画像があった。

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Language diversity of the Japanese Archipelago and its relationship with human DNA diversity.(pdf)

意外にも、出雲の人々のほうが東京サンプルよりも韓国人から遠いというのだ。そして同時に中国の南北両方のサンプルからも遠いという。

 

これは、「出雲には縄文海人D1b1aが多く、玄界灘海人(47z想定)とは元の勢力が異なる」と予測している自分にとってすら意外なことだった。

大国主とペアで描かれる少彦名だとか(wikipedia古事記』・『日本書紀』・『播磨国風土記』)、国引き神話阿用郷の目一鬼(『出雲国風土記』。風土記はまとめた本もあります)など、出雲神話で語られてる話があったり、具体的な渡来人の名前がこれらの書物にいくつかあったりするわけだ。

だから、出雲勢側にいくらD1b1aなどの縄文勢が多くても、さすがにある程度渡来人勢力は多い地域だろうと思ってた。

それが、日本の中でも比較的縄文勢力が多いはずの関東・東京よりも、出雲のほうが大陸勢力から遠い数値が出た、というのだ。

面白い!

もっと詳しい出雲に関する解析がそのうち出てくるんじゃないか、と期待します。

なお、この論文は主題が言語にある。この論文には、琉球語の日本語からの分岐は2000年以上前など(他の論文の、1500年前・2200年前といった数字も記される)とされ、こんな方言の距離関係図がまとめにある。

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最も注目すべきは、調べられた中に"OLD JAPANESE"奈良時代に話されていた上代日本語を指す)・"MIDDLE JAPANESE"(その後だが、中古日本語中世日本語を合わせたものにあたる)といった古い言語が入っていることと、その位置。

つまりこれを普通の樹枝状の分岐図に直した場合、分岐のルートとなるはずの琉球語との分岐部分は、古い言語と琉球語の間のどこかにあるわけだ。

なお、ここには古いものほど遠くへ行く方言周圏説に従った分布も表れていると思われる。

ここで、伊豆諸島でも南側の八丈方言(これも八丈語として日本語から分ける説あり)が、これら古い日本語にも琉球語にも近い、ルートとも近いだろう特別な位置にあることも重要。

また、八丈方言が古い形の日本語に近いということは、少なくとも伊豆半島ぐらいまではずっと日本語圏であって、アイヌ語圏ではなかったのだろうということにもなる。(このあたりは遺伝学的にも以前触れ、もう少し先の関東までは古くからの日本語圏かもしれない)

その他では、山口が奈良などの畿内勢と非常に近い、というのも面白い。かたや福岡は離れているわけだ。

しかし、九州で長崎弁だけが離れて東日本側にあるのは何故なんだろ? 論文には瀬戸内方言の影響って書いてあるが、実際はそれどころじゃなく栃木と並ぶ位置になってる。数字のイタズラ?

 

関東の稲作開始時期

ついでに、その関東の稲作導入が遅れたという、以前諏訪の御柱についてのNHKスペシャルで聞いた話を書いた論文(これは日本語)も見つけた。

弥生文化の輪郭 : 灌漑式水田稲作は弥生文化の指標なのか

問題の話は「3.弥生文化の質的要素」にある。

次の図の、水田稲作開始期を示す点線の位置に注意。

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それほど大差でなく百年程度だが、確実な証拠としては関東は東北より遅い。そして一番遅れたのは諏訪のある中部高地だ。(※引用しませんが、この図の根拠は論文にいろいろ書いてあります)

 

ただここで、このデータをどう読むべきかについて、論理学レベルの話をしなければならない。

「存在証明」できなくても、それは「不在証明」にはならない。

不在であるという証明は別に求められ、しかもそれは存在証明よりずっと難しい。

存在証明は証拠が一つ見つかれば成立するが、不在証明は探して無かった場合でも、「現在わかった範囲では」という限定付きでしか成立しない。

たとえば――地震を引き起こす活断層は見つけること自体が難しい。見つかっていなくても活断層の不在証明にはなり得ないのだ。多くの活断層は隠れていたり部分的にしか見つかっておらず、実際に活動して始めて未発見部分が発見されることになる。(このとき、地震の規模が活断層の長さから推定されていることにも注意が必要。活断層の未発見部分が連動すれば、当然のように地震の規模も大きくなる)

 

実際には、「確実に存在証明できる領域」と、「条件的に絶対存在しない領域」の間に、「存在証明できないが存在する可能性の考えられる領域」が多少拡がっているものなのだ。(上の図には、意図は違うが「ボカシ」と表現される領域があり、だいたい感覚的にはこんなイメージになる)

またこのとき、絶対存在しない条件を考えるのも、不在証明においては重要となる。これはまさに推理小説とかのアリバイの証明と同じだ。しかしこのアリバイも、実行可能な手段が見つかるだけで崩壊するものだ。

ちなみにこの論文では、定義によって弥生稲作から縄文稲作を分離している。始まりの問題ではいつでも、定義の境目の問題も発生するわけで、微妙な状態の違いによって定義で分けられる場合もあるわけだ。

だがこのとき、定義を変えることによって境目を固定しようとするのは、学問的には問題のある方向に走りやすい行為かもしれない。定義がわかりにくいものとなったり、世界全体の学問的常識から外れたり、本末転倒した議論になりやすいのだから。(※ただし、それまでそれほど厳密でなかった定義だとか、定義問題の発生した場合は、新たな知見を用いてしっかりと定義し直すことは必要ですよ)

 

ついでに。

関東などは、頻繁な開発によってしっかり地面が掘り返され、そのため比較的考古学調査されてる地域であるため、現時点で見つからないことが(完全ではないが)やや説得力を持つ。

その点では、地面を掘り返す開発の少ない地方ほど、充分な考古学調査はなされてないわけだから、まだ多くの新発見があり得ることになる。

(高速道路を通そうとしたら、その工事現場で高速道路に沿うように次々と遺跡が見つかる、なんてこともある。もちろんこれは遺跡が偶然高速道路沿いに並んでるわけじゃなく、実は周囲は一面遺跡だらけなのだと考えられるわけだ。また、東日本大震災後の話でも、集落ごと高い丘の上に引っ越そうとしたら、遺跡が見つかったり調査が必要になったり、なんて話がたくさんありました。調査には予算と手間がかかるわけで、充分な調査は難しいものだ)

 

ちなみに、この論文書いたのも『縄文論争』の藤尾慎一郎さんなんです。

この方の公式国立歴史民俗博物館のサイトで見つけたんでついでに。

生業からみた縄文から弥生」とか、面白く読ませていただきました。

  

海人に関する追記

これもまだ最初の話と関係する話ですよ。

ちょっと前の記事(前編続編)で、D1b1aの山陰海人とC1a1の瀬戸内海海人は縄文海人と書いた。(正確には、どちらも他の系統を結構含んでいるとした)

しかし、玄界灘の海人(47zと想定)については、縄文海人とは書かなかった、というか書けなかった。

これはちゃんと理由がある。

玄界灘の海人は、縄文時代から(現在の国境定義で言うところの)日本にいるが、同時に大陸側にもまたがっており、この二面性が重要な問題となる。

つまり、定義的に縄文人とも大陸側の人間(後の渡来人になり得る)とも決められない要素を持っていて、それこそがこの人々の最も重要な特徴だと考えられるわけだ。

もちろん、生活の内容や交流の程度や後の状況を調べれば、縄文人か大陸人か定義的な境目を決めて、定義の上で玄界灘海人を二つに分割し、片方を縄文人と呼ぶことも可能だろう。

しかし、そもそも現在と同じ意識的な国境はなかったはずの時代でもあり、「間にまたがっていること」自体を評価して、あえて切り離さず中間に置く分類(あるいは発想・着眼点)とすることにもメリットがある。

これは、言葉や文化の違いとして表れることもあり得るし、またまさに遺伝的な違いとして表れることが期待できる要素でもある。

実は最初の論文にも、渡来民の時期をさらに二つに分ける説の図があった。

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この第一波(Phase 1)は4000年以上前の縄文時代の時点であり、場所は北九州だともされる。それ以上の明言はないが、条件的にはまさに玄界灘の海人勢を指しているようだ。

 

これは実際に、ちょうど47zがそうであるらしいように、既にいろいろなデータに反映されて見えている可能性が大いにある。

最初の出雲の問題も、この「間にまたがってる」人々などが大きな鍵を握っている可能性があるわけだ。

 

ただし僕自身は、この件と別で、早い時期の沖縄ルート渡来民(オーストロネシア移民系)も少しいると考えてるわけだ。こちらも本当にいるなら、やはり影響はどこかに出る(既に出てる)可能性がある。

D1bの進入ルートについて――ADMIXTUREにも触れつつおさらい

縄文人Y染色体ハプログループD1bが日本の南北どちらから入って来たのかについて、いくつか。

 

まず、今後詳しく説明する予定のADMIXTUREも、この判断と関係している。

実は、日本人と韓国人(及び漢民族など)のADMIXTUREは、違いはあるが大きな方向性は似ている。

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The history of human populations in the Japanese Archipelago inferred from genome-wide SNP data with a special reference to the Ainu and the Ryukyu... - PubMed - NCBIの、Supplementにあったデータ。これが日本・韓国・漢民族(Han,CHB*1)などとアイヌ琉球を同時に揃えていてまずまず。*2

――ただしこのADMIXTURE、調べたメンバー(地域)構成と分割数によって毎回異なる結果が出てくることに注意が必要。いろいろ見た上で考え、判断してください。(深入りしないように、今回はこの程度の説明で済ませたい)

 

これは、日本人のADMIXTUREに、旧石器時代も含む古代から現在まですべてにおいて、朝鮮半島ルートから入った要素が多く、他の経路で入った要素が少ないことを意味している。

もしも北海道ルートから多くの北方要素が流入していたら、その影響は日本側勢力のみに及ぶと考えられ、それは当然日本人と韓国人の違いとして表れるはずだ。

しかし実際には違いがあまりないわけだから、少なくとも現在の日本人に北海道ルートはそれほど影響を残していないのだ。

ただしここで、アイヌ民族の場合は違ったADMIXTUREデータが出ている。ということは、こちらには北方の影響があることも考えられるわけだ。(ただし、このとき問題となる青の要素は、幅広い集団で観察できる、いろいろな要素を含んだものだから注意して欲しい。*3

(あるいは、日本人が征服され置き換わっているか、逆に北海道ルートの影響が朝鮮半島にまでしっかり及んだなら現在の結果となるか。または、北など周囲からの影響が日本人と韓国人で偶然似ていたならば、結果的に混合後の状態も似たものとなる。しかしこれらは、他の事実や数々のデータから否定されるわけだ)

 

なお、沖縄ルートに関しても同じような理屈は成立する。

ただしこちらは海路で見ると朝鮮半島とかなり近く、実際に交易もあり、共通するハプログループもいて、ADMIXTUREの類似点も多くなる。そのため、沖縄ルートからの影響が日本人にあっても、そのときは海路で同時に韓国人側にも影響することがあり得たり、あまり違いがわからないということになる。*4

(なお、「東方地中海(文化圏)」という用語もあります。慶應義塾大学 アジア基層文化研究会

 

また、以前「日本人のDNA、縄文人から12%受け継ぐ」というニュースについて、という記事で読んだ論文の内容も、遠回しだけれども、縄文系統のD1bがまず日本列島に南から入った(北海道ルートではない)ことを示唆していたと受け取れるようだ。

この論文のプレスリリースには、「縄文人は、現代人の祖先がアフリカから東ユーラシア(東アジアと東南アジア)に移り住んだ頃、最も早く分岐した」とあった。さらに、アメリカ先住民の東アジア人からの分岐はこの縄文人の分岐より後、ともあった。*5

つまり、縄文人は東ユーラシア人から一番早い時期に分岐していて、先に分岐した東ユーラシアの現存集団は見つかっておらず、なおかつアメリカ先住民の分岐も縄文人よりは後、だったわけだ。

 

ここで、おさらいをしながら説明していこう。

まず、縄文人を含む東アジア人(東ユーラシア人)は、東南アジアを通る南ルートで移動したのであり、バイカル湖周辺を通るシベリアルートではなかった。(「モンゴロイド」という表現の否定

そしてこのとき同時にわかったこととして、アメリカ先住民のほうはこのバイカル湖周辺(マリタ遺跡)にいた人々との関係性を持っていた。(最初この記事で触れたお話)

つまりアメリカ先住民は、古代の東アジア人ミトコンドリアハプログループはA・B・C・Dで、Y染色体はC2)と、マリタ遺跡などバイカル湖周辺系統の人々ミトコンドリアはXで、Y染色体はQ・R)が、合流して成立しているわけだ。(ミトコンドリアに関してはこの記事でまとめた)

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さらにこの、アメリカ先住民のアメリカ大陸への移動ルートは、(東アジア人系統ならば特に)だいたいアムール川河口付近を通ることになる。この周辺をアメリカ先住民が東アジア人から分岐した場所、と想定することもできるだろう。

(ただし、ずっと海岸づたいで、北海道から千島列島経由で一部アメリカ先住民が移動した可能性もある。ちなみにその海岸ルート説の別記事も書いてる。この場合、アイヌ民族か日本人と一部アメリカ先住民の間に深い関係性が見つかるかも知れない)

ところがこの地域は、まさにサハリン経由北海道ルートの付け根でもあるわけだ。(これらも別の記事

つまり、アメリカ先住民となった集団と、旧石器時代に北海道ルートで日本に入ったとされる集団は、これらの時期にアムール川河口付近にいた集団を元として、繋がっていることになる。(なお、サハリン集団も同様の関係性を持つ可能性が高い。ここはアムール河口域に繋がる、地理条件により接触集団の限定された僻地なのだ)

もちろん、このアムール河口集団自体にも時期による変化はあっておかしくない。

しかし北海道ルートの考古学的証拠(黒曜石交易など)はそれほど古くなく、しかも後の時代に続くものだ。すると、問題となる集団の存在時期に大きな隔たりはなく、むしろかなりの期間で重なり、だいたいは共通する集団だったのではないか、ということになる。

ということはこのおさらいの範囲でも、北海道ルート集団は、日本にいてアメリカ先住民組でもある、ミトコンドリアハプログループA・B・C・D、Y染色体C2・Q、の中にいるのではないか、ということになる。アメリカ先住民にいないD1bなどは違うのではないか、ということになるわけだ。

(なお、ミトコンドリアN9bのオホーツク民族から北海道への移動は否定した。真相はまるで違っていて、ロシア沿海州のN9bは日本から出たものであり、しかもその共通祖先年代も約642年前(誤差0~1585)という新しさだったのだ。アメリカ先住民集団にN9bなどNはいないのだから、このほうが理屈は通る)

 

またここで、縄文人の東ユーラシア人からの分岐は最も早かった、とされることも意味を持ってくる。

縄文人の分岐の場所がアムール河口域ならば、アメリカ先住民の東アジア人からの分岐時期との差もなくなってしまう。この場所に縄文人の分岐位置を持ってこようとすると、その長い移動経路で、縄文人よりも分岐の早い集団がいろいろ残っていそうな状況になってしまう。

縄文人の分岐の特別な早さは、縄文人が移動経路の初期段階に近い場所で分岐したことを示唆している。

実際、西のチベット周辺に日本のD1bの親戚であるD1a集団もいて、ブータンから両者の共通祖先が出たとするデータのある論文(The Y-chromosome tree bursts into leaf: 13,000 high-confidence SNPs covering the majority of known clades. - PubMed - NCBIこれも以前の記事で少しだけ紹介してます)があったりもするわけだ。

 

ただし、「縄文人は西で分岐をした後で、はるばるアムール河口域にたどり着いた」可能性を完全否定できるわけではない。

現在の日本人D1bの孤立状況は、縄文人分岐後の移動経路のすべての場所でD1b存在証拠が残らない状況になる、という展開を考慮する必要が出てくるため、移動経路の短い(あるいは海に沈むなどで考古学的証拠が消滅する)説ほど、成立する見込みは高い。

しかしこれは、「証拠が出ないことが証拠」という論理なのだ。

本物の存在証拠がどこかで実際に出たら、それを予測していたり肯定する説が一気に優勢になる。

だから、いろいろな可能性を考え、何があったら証明できるか(※この、論理的に証明となる状況を考えて指摘することが重要)、たとえ現在の主流派の説じゃなくても、考える価値はあるんです。

 

おまけ。他のアイヌ主役のADMIXTURE論文の図を、語族ごとに僕が並び替えたもの。(中身の一つ一つの順番も適当に並び替えてます)

メンバーと分割の仕方によってADMIXTUREはこんな風に変わる。考えるに、「似ている」とプログラムが判断する分割の範囲が条件次第で変わるからでしょう。

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*1:CHB=北京、Han-Sh=上海、Han-Tw=台湾の漢民族、Han-Ga=広州。少数民族は、Naitive Taiwanese台湾原住民オーストロネシア語族)・(ここからタイ・カダイ語族)Zhuangチワン族・Dai西双版納タイ族・Jiamao海南島リー族加茂語集団・(ここからミャオヤオ(モンミエン)語族)Hmongミャオ族系モン族・Miaoミャオ族・大きく離れてSheシェ族・(戻ってオーストロアジア語族)Wa佤(ワ)族・(このあたりから散在するシナ・チベット語族)Lahuラフ族・飛んでJinuoジーヌオ族漢民族を挟んで飛んでTujia土家族・Yiイ族・Naxiナシ族・(このあとモンゴル諸語)Tuトゥ族・Daurダウール族・飛んでMongolian・(このあとツングース系)Hezhenホジェン(ナナイ)族・Xibeシベ族・Oroqenオロチョン族・(最後にテュルク諸語)Yakutヤクート(サハ)族・Uyghurウイグル族。(グラフも語族ごとに並べるぐらいはして欲しいものだよ)

*2:欲を言えばニヴフなど北海道周辺も欲しい。なおこの論文は斎藤研究室のもの。この研究室は公式サイトがあって論文の一覧もある。

*3:歴史時代におけるオホーツク民族からの影響は論文の結論でも触れられているが、実はこの分析結果はその結論に結びつかない。この青はアイヌ以外からも普通に観察できる時点で、これが新しいオホーツク民族からの影響とは言えなくなるのだ。青の内部要素として含んでる可能性はあるが、その存在証明は全くできていない。このデータのアイヌはあくまでも、「元は青ばかりだったはずのアイヌ集団に、本州の日本人系統が混ざっていく途中の状況」と考えられるものだ。(「新しい継続する混合」を示すADMIXTUREのサンプルにできそう)

*4:ADMIXTUREは、もとの状態が似た集団の間だと、混合したり侵略したとしても変化がわからないという欠点がある。

*5:ところで、チベット周辺のD1a集団も、日本のD1bと分岐時期の同じ頃の親戚ということになるわけで、言及しておくべきだったように思う。