知識探偵クエビコ

人類史・古代史・神話の謎を探ったり、迷宮に迷い込んだり……

積み残しのアイヌやサハリンのお話

サハリンなどについて、前回書くのを忘れた、読んだweb資料をいくつか。

  • アイヌ文化振興・研究推進機構
    いろいろ情報があります。(いろいろありすぎて必要な情報を探すのは大変だけど)

  • シリーズ 東アジアの中の日本の歴史〜中世・近世編〜 【第3回】オホーツク世界と日本
    http://www.nippon.com/ja/features/c00103/
    この記事で歴史的事情がおよそわかる。『元史』の骨嵬征討記事があったり、千島からカムチャツカの事情がわかったり。(結果的にアイヌはサハリンから追い出されたわけじゃなく、むしろサハリンでの存在を元に公式に認めさせたようだ。それでN9bも北へ進出したのか。*1
  • こんな記事(オホーツク人のDNA解読に成功)もあるんですが、ここには日本側集団をいつでも影響される側に置いて解釈する悪癖が出てる、と思うんですよ。因果律は、常に逆方向・共通祖先など別の可能性を押さえて考えなければならない相関関係と因果関係 - Wikipediaのに。(実際アイヌは、男のY染色体構成はシンプルだが女はいろいろという組み合わせであり、特定のD1b男集団がいずれかの時期に覇権を握って大きく拡張し高比率となった可能性が高い、と読み取れる構成になってるわけです。遺伝的には、北から攻め込まれた側には見えない。ただし、この高比率のD1b集団がどこか古い時期に津軽海峡を越えて進出した者たちをルーツとする可能性はあります。神を意味するアイヌ語カムィ・祈む(ノム。祈る(いのる)の古語(weblio古語辞典))のように、宗教的なところに日本語と関係を持つ言葉が入ってますし)
  • サハリンの少数民族
    −バイカル大自然に生きる−【サハリン―少数民族の現状】
    −バイカル大自然に生きる−【サハリンに残された人々】
    こちらでは、サハリンのいろいろな先住民たちが、当時の頻繁な国境変化に対応するために、もともとの名前以外に日本名とロシア名を持っていた、という事情を知ることができる。人々が既に存在し生活していた所に、国境が後から通って分割したわけです。

もうちょっとだけ北の話を書いておきたい。次の記事にします。

*1:前回の記事の最後にも、アイヌオホーツク文化勢などを追いやったのだと読み取れる考古学的状況を引用した。

アイヌADMIXTURE論文の続きと、アイヌについていろいろ

「D1bの進入ルートについて」論文で、自分の読み込みと調査不足のため触れなかったADMIXTUREがある。

(また、今までに書いていたアイヌY染色体ハプログループデータの比率を少し(D=87.2%が89.5%に)訂正しました。申し訳ない。*1

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問題は、どちらの図でも奇妙な混ざり方をする紫だ。(なお、図の説明に登場する「Figure 1a」は、この次に引用する主成分分析図にあたる)

この紫は、青いほうのアイヌの人々とはっきり分かれた100%の純度で、5人分が現れている。するとこの5人が平取のアイヌ集団に加わった時代は、かなり新しいはずだ。

しかしこの紫は同時に、他のアイヌ集団と混ざった状態でも現れている。

また、青と量は違うが、同じぐらいにまんべんなく、日本や中国の人々など全体に混ざってもいる。

彼らの正体は何者だ?

 

論文には次の主成分分析図もあり、左上の赤で囲われているのが紫100%の5人だという。

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さらに論文はこの5人の正体を、重要証言を元に次のように推測する。(下線は自分が引いた)

Another information from the Ainu representatives of the Biratori Town was that some Sakhalin Ainu people migrated to that town after the World War II. There is a possibility that the five outliers in the red circle in Figure 1a are Sakhalin Ainu people.

つまり、「二次大戦後、平取にサハリンアイヌ樺太アイヌ)が移ってきた」という証言があり、この5人がそれにあたるのではないか、というのだ。

 

そう、彼らは加わった年代は非常に新しいが、しかし元をたどれば同じアイヌ民族だった、と考えられるのだ。(このデータが集められたのは1980年代初頭のため、本当に戦前の樺太出身の移住第一世代がデータに入った可能性もある)

だから紫は混ざらない100%で登場するとともに、他のアイヌに混ざっても出てくるし、その他の民族集団への混ざり方も似ていたわけだ。*2

この状況は説明が必要だろう。

アイヌ(正確に書けばその先祖集団)は非常に古いために、変異をいろいろとたくさん持っていたわけだ。*3

だから主成分分析をすると、蓄積された変異による個性の差が大きく出て、上の図のように個人個人がバラバラに大きく分散することになる。

――ただし、混血状況など別の理由がある可能性も書かれていた。アイヌだけが他の民族すべて以上に拡がっていて、日本集団の中に現れるものすらいるわけで。(自分も、アイヌ先祖集団が北ルートと南ルートの混合で生まれ、故に起源の時点からばらつきが大きかった、という可能性を考える)

そしてここに地理的な隔離が働くことで、交流が限定され、それぞれがある程度独立した傾向(地方性)を持つことになる。

――これは当然サハリンアイヌに限った話ではない。千島アイヌも、その島ごとに異なる傾向を持った集団だったと考えられるわけだ。また日高山脈のような北海道内部の地理的隔離も、集団の多少の違いを生んでいるだろう。*4

だからADMIXTUREのような分析をしたときでも、それぞれが異なる特徴を持つ集団だと判定されやすい、ということになる。アイヌのように起源の古い集団は、その古さの分だけ独自の変異を多く獲得することになるわけで、するとさらにその内部で分割され、複数の集団と分析されてしまう可能性もあるわけだ。

 

この、完全なサハリンアイヌが日高アイヌのデータに入っていたらしい(この論文の解析できた範囲で5人/36人中にあたり、割合は約14%)という状況は、他のアイヌデータの再検証をしなければならない事態を生む。

これは、サハリンアイヌ側にはオホーツク文化の影響が大きく出ている可能性が高いからだ。しかも実際には彼らは、昔のオホーツク文化の時代だけでなく、その後もずっとサハリンなどの周辺民族と交流し続けてきた人々でもある。

しかし同時に、そのサハリンアイヌを除いて日高平取のアイヌだけのデータを見たときのオホーツク文化の影響は、除いた分だけ減った値になってしまうはずなわけだ。

地域が違うならその地域に対応したデータの出てくる可能性を考えるべきだったわけで、本当は最初からサハリンアイヌのデータを分けておくべきだった、ということになる。*5

ただし、そのとき気にせず調べてくれたからこそ、望んでも手に入らない貴重なサハリンアイヌのデータ(歴史・伝承の物的証拠)が残ったことになるわけだが。

 

ここで、この論文を隅々まで読んで自分のミスを発見したことを告白しなければならない。

この論文には、今までの現代のアイヌに関する遺伝学の論文が、すべて1980年代に採集された同じアイヌサンプルを参照していると書いてあったのだ。*6

予想外なことに、4人しか見ておらずしかもそれ以前のTajimaの16人分の結果を引用しているHammerの論文でも、実際の重複があるかは不明だが、結局どちらも同じ時に採集したアイヌサンプルを見ているデータだと言う。(16人と重複する部分のデータを調べたと仮定すると、何でわずか4人だけ調べてるのか理由がわからなくなるが)

そこで今後アイヌの男のデータとしては、確実に別サンプルを見ている、最大の男19人(男女不問で49人分)を分析した小金渕Koganebuchiのデータ単独を中心に使うとします。(なお、このデータのサンプルIDを見ると数カ所飛んでいるところがあるため、実際のサンプル人数はもう少し多いらしい。実際、ミトコンドリアではアイヌ51人分(血縁関係無し)のデータがある。ただし、このアイヌサンプルに男が最終的に全部でどのぐらい含まれているか、片っ端から論文を読んでもわからなかった)

ちなみに、同じサンプルを見れば比率は同じであるため、結果的に出た比率はさほど変わっておりません。

また、既に最近は、HammerとKarafetのデータのように、同じサンプルを疑ってかかり、重複問題が起こらないようにしております。

おまけ。昔引用した篠田先生のスライド(pdf)アイヌミトコンドリア51人分でした。そこに過去のデータがあったのでついでに引用します。現在のアイヌデータは、おそらくGの多さなどにサハリンアイヌの混ざった影響が出てるはず。

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ついでに、篠田先生の新しいスライドも見つけました。(元の同じ画像入り)

DNAから見た日本人の起源 ~日本人成立の経緯~、篠田 謙一 - 雲南懇話会

http://www.yunnan-k.jp/yunnan-k/attachments/article/893/20160319-36-05-shinoda-slide.pdf

ここには、石垣島白保遺跡のデータとか、同じM7aでも日本の南と北は別系統、なんて情報も出てます。

(ちなみに、昔はこのM7aを南方系統とか片方に決めつけてたんです。ここでこの北の系統の拡がった範囲が、東北限定であることにも注目。昔からのアイヌ語圏はこのあたりまでじゃないか、と以前から書いてる範囲ですよ)

 

ところで、アイヌに関しては他にもいろいろ調べてる。

たとえば、瀬川拓郎さんの『アイヌ学入門 (講談社現代新書)』を読んだり。(『アイヌと縄文: もうひとつの日本の歴史 (ちくま新書)』のほうが新しい本。ついでに検索リンク

どうやら、D1b1がやけに多かった旭川のデータにも、やはりアイヌの方々が含まれていたようだ。(※これは日高でもサハリンでもない別地域のデータとなる)

旭川市公式でも詳しい歴史事情がまとめられてました。旭川市アイヌ文化振興基本計画 | 旭川市

 

この瀬川拓郎さん(現在の旭川市博物館長だそうで)は、ウェブ上にもいろいろ記事があります。

アイヌと縄文の世界観 瀬川拓郎 | みんなの縄文プラス

朝日新聞デジタル:新たなアイヌ史へ:上 瀬川拓郎 - 北海道 - 地域

朝日新聞デジタル:新たなアイヌ史へ:下 瀬川拓郎 - 北海道 - 地域

これ重要情報ですね。

古代の擦文時代の遺跡は全道に分布するが、そこには時代的な差がある。道北とオホーツク海沿岸は、4世紀から9世紀後葉までオホーツク人というサハリンから南下した集団が占めていた。しかし9世紀後葉になると、オホーツク人の遺跡と入れかわるように、道北日本海側にアイヌの集落が出現する。10世紀にはオホーツク海沿岸、11世紀には道東太平洋沿岸・南千島・サハリン南部、15世紀には北千島からカムチャツカ南端にアイヌの集落が出現する。

実はこの方が書いてるらしきはてなダイアリーにもたどり着いてます。面白いです。

北の考古学─日々の着想

*1:データ採集の事情が判明した結果、同じサンプルを多重カウントしていたかもしれないミスがわかりました。過去の該当記事は、最近のD1b関係記事のアイヌを含むデータ画像も含めて訂正しております。ちなみに、D1b(2)の内部比率の多い順番が入れ替わったため該当文章は直していますが、他に記事内容や議論に影響するほどの数値の変化は起こっていません。

*2:これもADMIXTUREをどう理解するか、という解説になってます。ADMIXTUREをどう説明すべきか考えてるんですけどね、やっぱり、何が読み取れるか利益がわからないと、意味不明のまま記事を読んでお勉強する気にならないでしょう? だから、説明をまとめる前に、少しずつ引用しながらある程度まで説明を書くことにしました。

*3:たとえばアフリカの古い系統の人々を調べると、やはりその年代の古さに応じて、非常に多くの蓄積された変異を持っている。

*4:なお、影響の出る要素に、もちろん言語的な隔離や国境による隔離などによるものもある。だからこそ世界の人々を分析したときに、民族・言語・国集団ごとに分かれた状況が現れるわけだ。

*5:なお、江戸時代のアイヌ遺骨データがあるため、ある程度昔の各地の状況はわかっている。

*6:骨を調べる人類学者が、遺骨返還問題でアイヌとの関係を悪くしてるせいでしょうか。ちなみにアイヌ遺骨返還問題に関する文部科学省のサイトもあります。

「日本列島人形成の三段階渡来モデル」について

前回の最後で、渡来民を二段階に分ける説が出てるという話をした。

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なお、今回の記事タイトルの三段階は、この新しい渡来民の二段階に、旧石器時代の最初の頃の渡来を一段階目に数えている。だから、合わせて三段階。 部分的には異なるが、大きな方向性はこの図の二段階説と同じだ。

 

斎藤研究室の主である斎藤成也先生は、この三段階説について詳しく書いている。

日本列島人の歴史 (岩波ジュニア新書 〈知の航海〉シリーズ)
 

そこで、タイトル「日本列島人形成の三段階渡来モデル」を付けられた、該当部分などをしっかり確認したわけだ。

 

さらに。

このタイトルで検索したら、インタビュー記事も見つけた。(出雲の話もしてた)

このインタビュー記事には、一番最初に出した図を段階別で詳しくした、本にあった図もある。(説明がついてカラーのため、本の図よりわかりやすい。リンク先の記事で大きい画像が見られます)

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そして次の説明が付く。これは本だともっと長い説明があるところだが、概略は同じだ。

第一段階は約4万年前から約4000年前(旧石器時代縄文時代の大部分)です。第一波の渡来民がユーラシアのいろいろな地域から様々な年代に、日本列島の南部、中央部、北部の全体にやってきました。

第二段階は約4000年前から約3000年前(縄文時代末期)です。日本列島の中央部に第二の渡来民の波がきました。第二波の渡来民の子孫は、日本列島中央部の南側において、第一波渡来民の子孫と混血していったことを示します。一方、中央部の北側と北部および南部では第二波の影響は、ほとんどありません。

第三段階は、約3000年前から現在までです。本州の中央部に第三段階で水田稲作の技術をもたらした渡来人が列島に入っていって、日本列島の中央部(福岡県、瀬戸内海沿岸、近畿地方の中心部、東海地方、関東地方の中心部)に移動していったことを示します。この段階では人口が急速にふえていきました。中央部が二重になっているのは、日本海や太平洋の沿岸に第二段階の渡来人のDNAが残ったのではないかということを示しています。

前半の約3000年前~約1500年前(弥生時代古墳時代)は北部と南部および東北地方では、第三波の影響はありませんでした。

後半の約1500年前から現在(飛鳥時代以降)になると、それまで中央部の北にいた人が北海道に移動していったり、中央部の南にいた人が沖縄に移住したりしました。北海道の北部にはオホーツク人が渡来するなど時代とともに混血が進みました。

ただし、 初期の移住者を一段階目として考えたためもあってか、前回の論文とは少々意味が違っている。

まず、第一段階は「いろいろな地域から様々な年代に」(南から北まで全体に)となっており、4000年以上前*1ならば旧石器時代から縄文時代まで、全方向の移住者すべてを含む表現になっている。

つまりここには、旧石器時代に入ってきた縄文人だけじゃなく、5000年程度前でオーストロネシア移民がいたとしてもまとめて含んでしまうはずの、実は一段階どころではない、かなりあいまいな表現になっているわけだ。

そのため、段階分けの意味も前回の論文とは違う、ということになる。

次の二段階目が、年代は違って北九州のような限定もない(本にも具体的な場所は書いてない)が、位置づけとしては前回の論文の一段階目にあたると考えられる。

そしてこの二段階目の第二波渡来民集団は特別扱いされ、三段階目の描写の中でも「日本海や太平洋の沿岸に第二段階の渡来人のDNAが残った」とされている。

ここで、一段階目に含まれた集団は中央にあまり残っていないと考えているようだ。

ただし前回の論文も今年の新しいものであるため、矛盾してるように見える部分で別の可能性も考えているのかも知れない。そういえば、二段階目に北九州の限定がないから、その部分で北九州以外の集団(南九州とか)の可能性を見ていることになるか?

 

実は自分の場合は、昔から指摘されている要素でもある、神話などに含まれる南方要素から、出雲に南方の民族集団(漢民族以外であれば良く、オーストロネシア系も含む)が絡んでいる可能性も考えている。

それなら、韓国や漢民族とは遺伝的に違う傾向が出雲に出ても不思議じゃないわけだ。

 

この南方由来説(たとえばこれとかこれとか)も、考えられてるんですかねえ?

 

12/19追記

なお、本のほうにも「出雲神話」というタイトルの一節があり、そこに問題の出雲データへの言及がある。

さらにそこには、「高天原が実在の地の反映であったならば、それは九州北部だったかもしれません」だとか、天つ神が九州北部の人々だった可能性がある、といった、可能性を限定しない表現の推測も書かれていたりする。*2

これは結果的に、天津神は大陸勢力でなく、実は「天」(アマ)=「海」(アマ)なのではないか、という可能性を示す(断言はしていない)説になっている。

もちろん、自称天津神系統だが実際は古くからの土豪系統だった、などという場合は、いろいろな氏族であり得るところだ。(相手が有力者ならば、周囲も確信犯的に自称を認めてしまうことになる。たとえば源氏を名乗った徳川家のように。この場合、源氏側も名乗らせて味方にしておいて損はないわけだ)

 

ついでに。

この記事の少し前には、「前方後墳の多い国(地方)」という表(国の単位は律令国もある。ここでも一番が出雲(41)で、さらに二番が上野(36)となっており、直接的な関係とは限らないものの、これはD1b1aが多いと自分が予測した二つの国そのままだ。(ただし三番目は出羽国分割後の陸奥の国(34))

なおwikipediaの項目には大きさを考慮した前方後方墳の数が出ているが、ここで問題となる愛知県もD1b1aがそこそこ多い側に入っている。

古墳を作っていた側土師氏が出雲の野見宿禰の子孫だから、どこかで関係あるのか。ただし、土師氏は前方後円墳とも関係する。また出雲は四隅突出型墳丘墓もある地域であり、作り手側としては頼まれれば何でも作るものかもしれない。そして、作り手氏族の多さそのものが各種古墳文化を広め、特に小型古墳の数を増やすことはあり得そうだ。(このとき、特定の形の古墳を選んで作らせた側が問題)

 

*1:具体的な年代に関しては、どんな学者先生も最新の学術的情報や判断を反映させて修正していくところであるため、変化することもあるでしょう。

*2:この本、結構「かもしれない」など可能性表現が多く、わりと自由に推理なさっているようだ。