知識探偵クエビコ

人類史・古代史・神話の謎を探ったり、迷宮に迷い込んだり……

ニュース:現生人類、「出アフリカ」は一度だけではなく、約12万年前から始まっている

少し遅れたけど、わかり始めてたことを、現時点で学者がまとめた研究報告のニュースです。

今回は、このニュースと該当論文以外の話もする。

現生人類、「出アフリカ」は一度だけではなかった 研究 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News

【12月8日 AFP】人類がアフリカを出て移住したのは約6万年前の一度だけという説はもはや正確な人類史とは考えられないとする研究報告が7日、米科学誌サイエンス(Science)に発表された。

 研究によると、現生人類の拡大をもたらしたのは、約12万年前から始まった複数回にわたる移住だ。

 DNA分析や化石同定技術の発達、とりわけアジア地域における発見が、人類の起源についてのこれまでの認識を見直す一助となっている。

 研究によると、現生人類ホモ・サピエンス (Homo sapiens)がアジアに到着したのはこれまで考えていたよりずっと前であることが、過去10年間の「大量の新発見」で明らかになったという。

 中国の南部と中央部の複数の場所で、約7万~12万年前のホモ・サピエンスの化石が見つかっている。また発見された他の化石は、現生人類が東南アジアとオーストラリアに到着したのは6万年前よりもっと前であることを示している。

 

元の研究報告はこちら。

On the origin of modern humans: Asian perspectives | Science (Christopher J. Bae, Katerina Douka, Michael D. Petraglia)

ただし、この報告を必要以上に細かく読む必要はないかもしれない。英文の上に、あらまし以外を見ようとすると有料だったり。また、これが「まとめ」である以上、報告されてる要素の一つ一つは既に発表されてるわけだ。

それに、今回の件に関しては別のリリースもある。  

こちらが、マックス・プランク人類史学研究所(Katerina Douka, Michael D. Petraglia所属)のニュースリリースだ。

Revising the story of the dispersal of modern humans across Eurasia | Max Planck Institute for the Science of Human History

© Bae et al. 2017. On the origin of modern humans: Asian perspectives. Science. Image by: Katerina Douka and Michelle O’Reilly

※なお、この図は学者の意見が一致しない「可能性」の要素も描いたようだ。これは……研究を促すためなのか。(デニソワの問題はこの後まとめる)

 

このリリースには――未解決の問題が残っていて、アジアで新しいリサーチが必要であるとか、複雑な人間の分散モデルを開発する必要がある――などと書かれている。

 

さらに、少し前に同じメンバーが報告を出していて、問題の研究報告がどういった事柄(論文)を元に書かれたか、こちらで一通りわかるようだ。

Human Colonization of Asia in the Late Pleistocene: An Introduction to Supplement 17 (Christopher J. Bae, Katerina Douka, and Michael D. Petraglia)

似た内容の図もある。(違う部分が今回の意図的なところか)

The various dispersal models for modern humans from Africa and into Asia

  

ここで元になってる発見や論文は、一部は自分もニュースにした。

ヒトが初めてオーストラリアに到達したのは約65,000年前だった 

スマトラ島でも73,000~63,000年前の化石発見――続報:ヒトが初めてオーストラリアに到達したのは約65,000年前だった

西アフリカ・モロッコの30万年前のホモ・サピエンスも「類人猿はどこから「ヒト」なのか? (分類編)」の最初で触れてる。

(確かに、これらはみんな今年のニュースだったわけだ)

 

そして、中国南部の8万年以上前の化石人類など、近年中国で出た化石も、今回の記事の問題に大きく関係している。

上のニュースは2015年だが、今年2017年3月のニュースもある。

これは、「デニソワ人かも知れない」というところが重要なところ。

この他、デニソワ人だけでなくネアンデルタール人やフローレス原人や、その他アジア各地の化石人骨が、今回の記事に関わってくる。

 

また、引用されてる中に海部さんの今年の論文もあった。

Archaic Hominin Populations in Asia before the Arrival of Modern Humans: Their Phylogeny and Implications for the “Southern Denisovans”

これが、 “Southern Denisovans”――未確認の「南方のデニソワ人」に関する論文だ。

 

そして、実はこのデニソワ人こそが、重要な未解決の問題の一つなのだ。

この、「南方のデニソワ人」がちゃんと確認できていないために、今の学説は、「北方のデニソワ人」のみが確実な状況で組み立てざるを得ない、不本意な状況になっているわけだ。

 

デニソワ人の問題

確実なデニソワ人は、北方のロシア・アルタイ地方のデニソワ洞窟でしか見つかっていない。

しかも発見されているのは、わずかに「歯が3つと指の骨のかけら1つ*1だけなのだ。

デニソワ人の歯(レプリカ)デニソワ人の指の骨(レプリカ)

分岐図(4番目のデニソワ人)

ただ、このたった4つの骨それぞれの遺伝的な解析が可能だったために、ネアンデルタール人とも現生人類とも異なる「デニソワ人」として、これらが認識されているわけだ。*2

 

しかし、その姿はほとんどわからない。ほぼ歯しかないんだから。他の化石と比較して姿を再現することも難しい。

しかも、このデニソワ洞窟のデニソワ人と、南方など他のデニソワ人は、形態が違う可能性もある。

ということは、他に「デニソワ人」と言える化石があるのか/逆に確実に「デニソワ人」ではないと否定できるのか、今の状態では、ほとんどわからないわけだ。

遺伝解析できない限りは。

 

そして、ここからが重要だ。

デニソワ人は、遺伝的証拠からすれば、南方(東南アジア方面)にもいたはずなのだ。

しかし現状では、デニソワ洞窟以外の「デニソワ人」は、確実には存在証明できていない。

ところが、「デニソワ人」の真の姿がわからないわけだから、今のところ確認できていないだけで、「デニソワ人」は既に発見された化石人骨の中に潜んでいる可能性もある。

そして、そういう状況だからこそ、「確実なデニソワ人」の発見も求められてるわけだ。

 

今回の記事は、まるで今年のまとめ記事のようだった。

でも、まだ多少関係ある話題が続きます。Y-Fullでずっと分析中だったDの正体がわかった。

 

*1:ここで、4番目のデニソワ人の「確認」も今年の論文(A fourth Denisovan individual)

*2:なお、図にあるSima de los Huesosは「考古学的な遺伝証拠はどのぐらい古くまで残ってるものか?」などで扱った、43万年前のスペインの化石人骨。

檀石槐の倭人の話―遼寧省錦州市のY染色体ハプログループC1a1の由来はどこにある?

壱岐の原の辻遺跡で遼東系銅釧が出土し、時代も1世紀頃*1と古かった――となると、まだ正式に説明してなかったことを、ちゃんと説明・検討しておく必要があるだろう。 

それは、2世紀末の鮮卑檀石槐、『後漢書烏桓鮮卑列傳の「倭人」千餘家の話だ。

種眾日多,田畜射獵不足給食,檀石槐乃自徇行,見烏侯秦水廣從數百里,水停不流,其中有魚,不能得之。聞倭人善網捕,於是東擊倭人國,得千餘家,徙置秦水上,令捕魚以助糧食。

引用元は今回も中國哲學書電子化計劃だが、古代史獺祭 後漢書 卷九十 烏桓鮮卑列傳第八十 鮮卑(フレーム)に読み下し文付き(関係あるのは末尾近く)がある。

種衆は日に多く、田畜・射獵するも食を給するに足らず。 檀石槐すなわち自ら徇行(じゅんこう)し、烏侯秦水の廣從(こうじゅう)數百里に、水の停(とど)まり流れざるを見る。 その中に魚有るも、これを得ること能(あた)わず。 倭人は善く網もて捕うと聞く。 ここに東に倭人を擊ち、千餘家を得て、秦水の上(ほと)りに徙(うつ)し置き、魚を捕らえ以って糧食を助けしむ。

 

ただしここで、同時に考えるなければならない別の文章がある。

三國志魏志三十巻*2鮮卑伝に、原型では現存しない王沈版『魏書』(『魏書』曖昧さ回避)の引用があり、そこでは倭人」でなく「汗人」(「汙人」の間違えとされる)とある。

鮮卑衆日多,田畜射獵,不足給食。後檀石槐乃案行烏侯秦水,廣袤數百里,停不流,中有魚而不能得。聞汗人善捕魚,於是檀石槐東擊汗國,得千餘家,徙置烏侯秦水上,使捕魚以助糧。至于今,烏侯秦水上有汗人數百戶。

三國志 : 魏書三十 : 鮮卑傳 - 汗人 - 中國哲學書電子化計劃

つまりこれは――本当は「倭人」と関係なく、「汗人」か「汙人」の話じゃないのか?――というわけだ。

なお、「汗」と「汙」は違いがハネ一つであるため、読んでも書いても混同しやすい。元の書物では手書きの小さな文字であり、文字が歪んだりかすれたり、時代経過で紙が汚れたり虫食いもあったり、文字の些細な違いは識別が難しいわけだ。そして、見慣れない固有名詞の場合、書き写すときに正誤の判断が付かないという事情もある。

 

しかしこの一節は、最後に付け加わった部分「至于今,烏侯秦水上有汗人數百戶」(今に至っては、烏侯秦水上に汗人數百戶がある)が非常に重要な文章なのだ。前半は過去の情報の引用だが、それを受けて、最後に王沈が現在の状況を同時代報告しているわけだから。

なお、この王沈版の『魏書』は、魏の曹髦の在位中(254-260)に編纂されたとされる*3。つまりこの文章は、遼東における魏の公孫淵討伐や、「魏志倭人伝」の記述の直後ぐらいに書かれたことになる。

この文章は、普通の引用とは意味が違うのだ。

  • 元が鮮卑の話であっても、魏(当時)の人物である王沈が、大雑把だが「汗人」の戸数の変化まで把握しているため、これは魏から離れた地域(縁のない異国)の話ではないだろう。――魏の公孫淵討伐に遼西の鮮卑慕容部莫護跋)が協力していたり、この時代に両者の関係性はある。鮮卑と関係する人物の証言を伝聞でそのまま書いてる可能性はあるが、それでもそれほど遠い伝聞ではないだろう。
  • この王沈は、烏侯秦水の「廣袤數百里,停不流」(廣袤=東西南北*4百里に渡って水が留まって流れない)といった形容を、認めて書いてもいる。この「廣袤數百里(「数百里」だから厳密なサイズを意味せず、大雑把に100km四方程度の広範囲か*5も大げさな表現ではなく、実際その通りだということになるだろう。
  • この場合、「汗人」(汙人)も、王沈の時代に実際にそう呼ばれていたという証言になるのではないだろうか。実際のその時点の呼称ならば、元のルーツが何者だったかとは別次元の問題となる。
    ここで、「汗」でなく「」(ウィクショナリー日本語版が漢字の由来を説明してる)ならば、まさに「水が留まって流れない」(故に水が淀んで「」くなる)という状況の重なる意味があり、水が留まって流れない「汙」の場所に住む者たちを、単純に「汙人」と言ってることになる。

 

烏侯秦水はどこなのか?

では問題は、「烏侯秦水はどこなのか?」、だ。

東西南北数百里に渡って水が留まって流れない、かなり広い湿地帯・洪水地帯・干潟のような場所で、鮮卑からも魏からも離れていない場所とはどこか?

ここで、定説の遼河上流部は、あまり縦横に拡がりも無く、ほとんど条件の合った場所ではない。

条件に合った有力候補は、現在の遼河平原の海に近い低湿地地帯ではないか?

ただし昔は、遼東湾に注ぐ複数の河川(遼河だけではない)の運ぶ土砂が今のレベルまで堆積していなかったため、海岸線も遼河の河口ももっと奥地にあった。次の地図の牛荘(牛庄)の港も、10世紀頃は遼河の河口にあったのだ。さらにずっと古く、『山海経』海内東經では「潦水出衛皋東,東南注渤海,入潦陽」とあり、この伝承時の遼河河口は遼陽(辽阳。別名襄平)の近くにあったともされる。*6

遼河平原の海岸の変遷

参考:遼河平原の海岸の変遷。論文(Quartz OSL and K-feldspar post-IR IRSL dating of sand accumulation in the Lower Liao Plain (Liaoning, NE China) : Geochronometria)もあるが、この地図がわかりにくいため、「营口不是辽口-史话佚闻-营口市文化体育和新闻出版广电局」から借用した地図を貼らせていただく。(この地図には錦州市と大凌河も、旧河口の牛庄も、ニュースの鞍山市も、公孫淵討伐の辽阳(遼陽=襄平)や海城(遼隧の戦い)もある)

 

しかし遼河平原はずっと奥地まで平坦であり、現在の瀋陽市奉天)あたりにも瀋陽西湖googlemapのような水郷地帯が現存している。瀋陽も「瀋水の陽」で、名称由来が川の「瀋水」(渾河(浑河)。これも「泥の河」の意味)にある)

さらに、潮の干満营口港(営口)で2m~4m程度のため、浅い遼東湾*7側にも、広い干潟がどの時代にもあったわけだ。

そして、公孫淵討伐記事においても、毎年のようにおこる遼河の洪水(水が留まって流れない状態)が描かれていた。まさに問題の時代に、この一帯に広く「留まって流れない水」があったことは、ちゃんと証言されていたのだ。

おそらく、遼東湾へ流れ出す水の出口を塞いでしまうような位置に砂州があって、どこか上流で大雨が降ると簡単に洪水となっていたのではないか?*8

ちなみにこの地域には、于洪区*9瀋陽)・大窪区盤錦紅海灘という有名な赤い湿原がある)のように水と関わる地理的特性を窺わせる地名がいくつも存在する。(洪・窪。他に沟(溝)・沙(砂*10)など。さらに直接海や川や湖沼にまつわる地名もある。また、洪水を避けられそうな台(臺)地名もある)

 

つまり、当時の「汗人」(汙人)がいたという「烏侯秦水上」は、遼河平原でも鮮卑慕容部のいた遼西側の大凌河河口に近いどこかではないか?

魏の公孫淵討伐に協力した鮮卑慕容部の莫護跋や、その子供の慕容木延高句麗討伐に協力)は、その功績によって魏から率義王(大凌河を少し遡った錦州市義県あたり)に封じられていたのだ。

さらに、東にあったという「汗人國」も、実際にはすぐ近くの遼東側の(水上も含めた)どこかの集落ではないだろうか?

当時は遼河河口も遼陽と牛庄の間(鞍山手前あたり)で、川が縦横に分岐して流れ、さらに砂州潟湖があった可能性も高い。季節的洪水と干満による水量変化砂州が繋がったり離れたり(トンボロ))はあるが、海人好みの安全地帯(シマ)は多そうだ。――ただしこの安全地帯は、鮮卑もなかなか攻め落とせなさそうな場所ではある。(乾季の干潮を狙ったり、陸上に上がったリーダーを拉致するようなことは可能だろうが)

なお、この説は――「汗人」が、鮮卑慕容部も参加した公孫淵討伐の時期に、まさに問題の遼河河口地帯にいた――という意味でもある。実際この時期の鮮卑慕容部は、洪水の時期も含んで遼河河口地帯を越えた遼東側で行動していたわけだが、そこに「汗人」の航海能力が関わってくるのではないか、ということにもなるのだ。(そして、魏の王沈が「汗人」の大雑把な戸数を把握していたことに軍事的な意味があるようにも思える)

ところでこの「強制的リクルート」は、海人的な「汗人」側にとって、安全保障されて珍しい交易品が手に入るならば、結果的に悪い取引ではなかったように思える。待遇が気に入らなければ、いつでも水上に逃げられるはずでもあり。

 

「汗人」のルーツは「倭人」なのか?

そして、ここからが重要な問題だ。

「汗人」のルーツは「倭人」なのか?

「汗人」は海人らしいわけだから、特徴は一致する。

しかし、中国海岸部・大河や朝鮮半島などにも海の民・水人はいて、倭人以外にも「汗人」候補はいるのだ。

ただし、漢民族がそれほど見慣れていない、特徴ある異民族(あるいは部分集団)が候補となる。正体のわかった民族だと、特別に「汗人」と区別して表現される必要性はないだろう。――たとえば、呉や越の海人なら普通にそう書かれそうだ。けれど、蛋民のような人々が当時どう呼ばれたかは定かでない。

 

だがここで、『後漢書烏桓鮮卑列傳では「汗人」でなく「倭人」としている、という事実が再びクローズアップされるわけだ。

そして――鮮卑と倭が友好関係を持っていたこと鞍山羊草荘漢墓と壱岐の関係性・そして遼寧省錦州市大凌河下流部のLiaoningさんのC1a1――といったような、弱い状況証拠も出てくる。*11

だから、確実ではないが、証拠からすれば「倭人」は「汗人」の有力候補だ、ということになるのだ。

 

ここで、今後どんなことが判明すると良いかを書こう。

もちろん、何か過去の考古学的証拠が発見されるのが一番いい。

また、遼河平原などで分岐年代が適当に古い(近年の移住ではない)C1a1だとかD1bのような日本特有のハプログループがなるべく多く発見されると、それで「汗人倭人説」の正しい可能性は強まる。このとき、集中する場所から、過去にいた場所がどこかもわかるかもしれない。

ただし、分岐年代の非常に古いC1a1が中国側のどこかで見つかるようだと、C1a1が古くは日本でなく中国側にいたのでは、ということになる。この可能性も考えておこう。(つづく)

*1:日本にその出土物が渡ってきた年代は、多少は後の年代になる可能性はある。しかし実際の交流は、証拠よりさらに古くから始まっていたか。――『山海経海内北經に、紀元前の倭との関係が記されていたりするところ。伝承の時期ははっきりしないが、紀元前3世紀あたりか。

*2:この三十巻の初めの方にあるのが鮮卑伝。最後のほうにあるのがいわゆる魏志倭人伝。――維基文庫にもある魏志三十巻原文(リンク)。

*3:王沈は、265年の魏滅亡直後、西晋の266年に死去。

*4:後漢書』の「廣從」だと縦横という意味。

*5:この記述の「里」という単位がどのぐらいだったかの問題はあるが、単位の「里」の位置付けからすれば、決して狭い地域ではないだろう。

*6:なお、さんずいを使った「」表記にも「たまった雨水」の意味がある。

*7:広く渤海全体で見ても平均の深さは25m程度しかないそうで、かなり遠浅な海だ。

*8:日本の例だと、大阪平野にあったという河内湖(参考リンク)のような感じ。

*9:」(汙・迂回・紆余曲折など)という文字自体に「つかえて曲がる」意味がある。曲がりくねってるわけだ。

*10:砂州も沙州と書く。地図中に「沙岭」(沙嶺鎮)もある。

*11:Liaoningさんの場合、遼東から遼西ぐらいなら、それほど特別な事情が無くても移住する可能性がある。また、C1a1が古くは日本でなく中国側にいたという可能性もあったりする。

ほぼ完全な弥生期の人骨出土 佐世保市・高島「宮の本遺跡」発掘調査

このニュースに反応しておこう。これも最近の海人話と無関係ではないのだ。

場所は長崎県の西海岸、九十九島の中にある高島佐世保市高島町宮の本遺跡長崎県公式佐世保市公式に図や写真がある。縄文時代草創期から古墳時代の複合遺跡)

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ここは旧松浦郡であり、松浦党末廬国家船など海人たちの領域だ。

以下、引用をたくさんやるが重要部分はこちらで勝手に強調する(色つけなど)。

長崎新聞ホームページ:【県内トピックス】ほぼ完全な弥生期人骨出土 (12月6日)

 佐世保市の離島、高島(高島町)にある「宮の本遺跡」で、市教委は11月から本年度の発掘調査をしている。遺跡ではこれまでに弥生時代の人骨が40体以上出土。今回は新たに3基の石棺墓を確認し、うち1基からほぼ完全な状態の人骨1体が見つかった。今後科学的な分析を加え、詳しく調べる

 遺跡の調査は昭和50年代に始まり、昨年26年ぶりに再開した。本年度は11月7日から12月15日までの日程で、約150平方メートルの区画を調査。墓地の範囲などを確かめている。

 今回出土した人骨は弥生時代中期ごろのもので、頭蓋骨や骨盤の形状から若い女性とみられる。長さ約160センチ、幅約30センチの石棺に入っていた。足を伸ばした状態で埋葬する伸展葬で、副葬品はなかった。

 遺跡の場所はかつて砂浜だったとされ、海上交易に携わった民族の可能性がある。これまでの調査で墓地は南北約260メートル、東西約60メートルに広がっているとみられる。市教委は「今回で北限は確認できた」としている。今後、数年は調査を続けるという。

 調査を担当した学芸員の松尾秀昭さんは「墓地以外に生活用具や住居の跡などは見つかっていない。今後は当時、人が暮らしていた環境を明らかにしていきたい」と話している。

この毎日新聞の記事には、「宮の本遺跡は1977年8月、住居新築工事中に石棺五つが発見された。これまでの調査で55基の墓から43体の人骨が出土」(今回石棺墓+3で、その中でほぼ完全な一体の人骨が出た*1)という数字の詳細がある。

 

「今後科学的な分析を加え調べます」だから、これからどうなるかに注目したいニュースだ。

記事中にあえて「弥生時代の人骨」とあるが、これが「弥生人」と同じ意味ではないことに注意。(後でまた触れる)

 

そしてこの宮の本遺跡は、沖縄から北九州を経て北海道にまで至る、南島産貝製品(貝輪。材料はゴホウライモガイ・オオツタノハ貝の考古学(忍澤成視)*2の交易と関わる遺跡でもある。

九州沿岸地域の島嶼間における原始・古代の文化交流に関する研究 上村 俊雄*3

キーワード 南島産貝製品 / ゴホウラ製貝輪 / アワビ副葬の埋葬習俗 / 支石墓の下部構造 / 箱式石棺墓 / 地下式板石積石室墓 / 宮の本遺跡 / 浜郷遺跡

研究概要 日本列島の近海に沿って流れる黒潮は、一つは九州の西を過ぎて日本海に入り本州および北海道の西岸を洗い、他の一つは太平洋岸側の伊豆諸島に達している。本研究では、黒潮の流れに乗って原始・古代の南島および大陸からどのような文物が往来したのか、また九州沿岸地域にどのように影響を及ぼしたのかなどについて調査研究を試みた。調査研究の対象を1.南島産の貝製品(ゴホウラ・イモガイ・オオツタノハなど)、2.大陸の関係の深い支石墓の2点にしぼり、壱岐対馬五島列島などの島嶼および西北九州を中心とした九州西岸の沿岸地域を調査した。1のテ-マの南海産貝製品のうち、ゴホウラ製貝輪は有川町浜郷遺跡(五島列島)、平戸市根獅子遺跡(平戸島)イモガイ製貝輪は佐世保市宮の本遺跡(九十九島中の高島)、五島列島福江島大浜貝塚中通島浜郷遺跡宇久島宇久松原遺跡オオツタノハ製貝輪は宇久松原遺跡・福江島大浜貝塚などで出士している。また、埋葬人骨にともなうアワビの副葬列が中通島浜郷遺跡、福江島大浜貝塚で確認されたが、同様な列は沖縄本島読谷村木綿原遺跡にもあり、弥生時代五島列島と沖縄に共通した埋葬習俗が見られることは注目される。南海産貝輪は九州西海岸をかすめて北九州へ運ばれるル-トの中で五島列島へもたらされたと考えられる。2のテ-マの支石墓については、甕棺・土壙・箱式石棺などの下部構造について調査した。九十九島の宮の本遺跡、五島列島の宇久松原遺跡・神ノ崎遺跡(小値賀島)・浜郷遺跡などの箱式石棺墓の中に南九州特有古墳時代の墓制である地下式板石積石室墓を想起させるものがある地下式板石積石室墓の祖源は縄文時代晩期の支石墓に遡る可能性を示唆しており、五島列島方面から南九州西海岸に到達したものと考えられる。この見解については平成3年11月9日、隼人文化研究会で「地下式板石積み石室墓の源流」と題して口頭発表をおこなった。

ここで、上村俊雄さんの研究成果にある「沖縄出土の明刀銭について」も重要だ。明刀銭中国戦国時代の東北部にあったのもので、沖縄と中国東北部を結びつけるような交易も紀元前にあったわけだ。

城嶽(グスクダケ) 那覇市歴史博物館:那覇市内史跡・旧跡詳細

大正末から昭和初期にかけて発掘調査が行われ、中国の燕国(えんこく)(BC409 ~ 36年)の貨幣であった「明刀銭(みんとうせん)」や、沖縄では産出しない「黒曜石(こくようせき)」が出土した。

(ここで、沖縄で黒曜石の交易もあったことは非常に重要。これも相当に古い時代の交流証拠だ) 

 

さらにもう一つ、かなり古い(1997年)が重要な情報がある。

長崎大学出展人骨資料 特集 日本人類学会・日本民族学会連合大会50回記念

宮の本遺跡(図2-B)
長崎県佐世保市相浦港沖の高島の砂丘上に形成された埋葬と周囲の包含地よりなる遺跡である。1977年から80年の調査で根獅子遺跡と同時期の人骨39体(成人骨30体)が出土している。コルマン及びウイルヒョウの上顔示数がそれぞれ44.9(1例),57.9(1例)を示し,推定身長値は162.6cm(2例)で西北九州地域の中では高身長である。

そして。(他の長崎県の遺跡の情報も一通りあり)

内藤ら(1981a,1981b,1984)は,縄文人と強い類似性を示す西北九州弥生人の分布が,長崎県本土の西端部,五島列島,熊本県の離島天草だけでなく,大陸にも近い玄界灘に面する地域にまで広範囲に及び,脊振山系を境にして東と西の弥生人の形質には差があったことを明らかにした。

この古い文章で引用されたさらに古い文章は、西北九州の「弥生人」と書いてしまってる。

しかし、これは弥生時代の人間だけれども遺伝的には縄文人系統の影響が強い可能性があるんじゃないのか、ということになる。だからこそ、遺伝的にちゃんと調べるべき、ということになるわけだ。

 

そして、現代の住民を調べることも有効であるはずで、充分に面白い結果が出てくるはずでもある。日本はどこを調べても縄文に繋がるハプログループがたくさん残っていて、しっかり出てくるんだから。

長崎は離島も多い(五島列島だけでなく対馬壱岐長崎県)ため、それぞれに個性的なデータが出てくると思われる。歴史的に松浦党家船文化もある。また、出雲の話で方言に触れたとき、九州の中で長崎方言長崎市中心)だけが東日本側の奇妙な位置にあったり、何かと面白いデータが出てくる場所でもある。

 

*1:慎重に読むと、残る二つの墓から人骨が出たかが定かでない言い回しになってる。

*2:このオオツタノハは約6000年前の富山県小竹貝塚からも出てる。縄文時代前期の古い交流だ。

*3:「理葬」表記を「埋葬」に訂正した。(本当は引用では直さないべきだが、重要な言葉を間違えると検索にかからない)