知識探偵クエビコ

人類史・古代史・神話の謎を探ったり、迷宮に迷い込んだり……

檀石槐の倭人の話―遼寧省錦州市のY染色体ハプログループC1a1の由来はどこにある?

壱岐の原の辻遺跡で遼東系銅釧が出土し、時代も1世紀頃*1と古かった――となると、まだ正式に説明してなかったことを、ちゃんと説明・検討しておく必要があるだろう。 

それは、2世紀末の鮮卑檀石槐、『後漢書烏桓鮮卑列傳の「倭人」千餘家の話だ。

種眾日多,田畜射獵不足給食,檀石槐乃自徇行,見烏侯秦水廣從數百里,水停不流,其中有魚,不能得之。聞倭人善網捕,於是東擊倭人國,得千餘家,徙置秦水上,令捕魚以助糧食。

引用元は今回も中國哲學書電子化計劃だが、古代史獺祭 後漢書 卷九十 烏桓鮮卑列傳第八十 鮮卑(フレーム)に読み下し文付き(関係あるのは末尾近く)がある。

種衆は日に多く、田畜・射獵するも食を給するに足らず。 檀石槐すなわち自ら徇行(じゅんこう)し、烏侯秦水の廣從(こうじゅう)數百里に、水の停(とど)まり流れざるを見る。 その中に魚有るも、これを得ること能(あた)わず。 倭人は善く網もて捕うと聞く。 ここに東に倭人を擊ち、千餘家を得て、秦水の上(ほと)りに徙(うつ)し置き、魚を捕らえ以って糧食を助けしむ。

 

ただしここで、同時に考えるなければならない別の文章がある。

三國志魏志三十巻*2鮮卑伝に、原型では現存しない王沈版『魏書』(『魏書』曖昧さ回避)の引用があり、そこでは倭人」でなく「汗人」(「汙人」の間違えとされる)とある。

鮮卑衆日多,田畜射獵,不足給食。後檀石槐乃案行烏侯秦水,廣袤數百里,停不流,中有魚而不能得。聞汗人善捕魚,於是檀石槐東擊汗國,得千餘家,徙置烏侯秦水上,使捕魚以助糧。至于今,烏侯秦水上有汗人數百戶。

三國志 : 魏書三十 : 鮮卑傳 - 汗人 - 中國哲學書電子化計劃

つまりこれは――本当は「倭人」と関係なく、「汗人」か「汙人」の話じゃないのか?――というわけだ。

なお、「汗」と「汙」は違いがハネ一つであるため、読んでも書いても混同しやすい。元の書物では手書きの小さな文字であり、文字が歪んだりかすれたり、時代経過で紙が汚れたり虫食いもあったり、文字の些細な違いは識別が難しいわけだ。そして、見慣れない固有名詞の場合、書き写すときに正誤の判断が付かないという事情もある。

 

しかしこの一節は、最後に付け加わった部分「至于今,烏侯秦水上有汗人數百戶」(今に至っては、烏侯秦水上に汗人數百戶がある)が非常に重要な文章なのだ。前半は過去の情報の引用だが、それを受けて、最後に王沈が現在の状況を同時代報告しているわけだから。

なお、この王沈版の『魏書』は、魏の曹髦の在位中(254-260)に編纂されたとされる*3。つまりこの文章は、遼東における魏の公孫淵討伐や、「魏志倭人伝」の記述の直後ぐらいに書かれたことになる。

この文章は、普通の引用とは意味が違うのだ。

  • 元が鮮卑の話であっても、魏(当時)の人物である王沈が、大雑把だが「汗人」の戸数の変化まで把握しているため、これは魏から離れた地域(縁のない異国)の話ではないだろう。――魏の公孫淵討伐に遼西の鮮卑慕容部莫護跋)が協力していたり、この時代に両者の関係性はある。鮮卑と関係する人物の証言を伝聞でそのまま書いてる可能性はあるが、それでもそれほど遠い伝聞ではないだろう。
  • この王沈は、烏侯秦水の「廣袤數百里,停不流」(廣袤=東西南北*4百里に渡って水が留まって流れない)といった形容を、認めて書いてもいる。この「廣袤數百里(「数百里」だから厳密なサイズを意味せず、大雑把に100km四方程度の広範囲か*5も大げさな表現ではなく、実際その通りだということになるだろう。
  • この場合、「汗人」(汙人)も、王沈の時代に実際にそう呼ばれていたという証言になるのではないだろうか。実際のその時点の呼称ならば、元のルーツが何者だったかとは別次元の問題となる。
    ここで、「汗」でなく「」(ウィクショナリー日本語版が漢字の由来を説明してる)ならば、まさに「水が留まって流れない」(故に水が淀んで「」くなる)という状況の重なる意味があり、水が留まって流れない「汙」の場所に住む者たちを、単純に「汙人」と言ってることになる。

 

烏侯秦水はどこなのか?

では問題は、「烏侯秦水はどこなのか?」、だ。

東西南北数百里に渡って水が留まって流れない、かなり広い湿地帯・洪水地帯・干潟のような場所で、鮮卑からも魏からも離れていない場所とはどこか?

ここで、定説の遼河上流部は、あまり縦横に拡がりも無く、ほとんど条件の合った場所ではない。

条件に合った有力候補は、現在の遼河平原の海に近い低湿地地帯ではないか?

ただし昔は、遼東湾に注ぐ複数の河川(遼河だけではない)の運ぶ土砂が今のレベルまで堆積していなかったため、海岸線も遼河の河口ももっと奥地にあった。次の地図の牛荘(牛庄)の港も、10世紀頃は遼河の河口にあったのだ。さらにずっと古く、『山海経』海内東經では「潦水出衛皋東,東南注渤海,入潦陽」とあり、この伝承時の遼河河口は遼陽(辽阳。別名襄平)の近くにあったともされる。*6

遼河平原の海岸の変遷

参考:遼河平原の海岸の変遷。論文(Quartz OSL and K-feldspar post-IR IRSL dating of sand accumulation in the Lower Liao Plain (Liaoning, NE China) : Geochronometria)もあるが、この地図がわかりにくいため、「营口不是辽口-史话佚闻-营口市文化体育和新闻出版广电局」から借用した地図を貼らせていただく。(この地図には錦州市と大凌河も、旧河口の牛庄も、ニュースの鞍山市も、公孫淵討伐の辽阳(遼陽=襄平)や海城(遼隧の戦い)もある)

 

しかし遼河平原はずっと奥地まで平坦であり、現在の瀋陽市奉天)あたりにも瀋陽西湖googlemapのような水郷地帯が現存している。瀋陽も「瀋水の陽」で、名称由来が川の「瀋水」(渾河(浑河)。これも「泥の河」の意味)にある)

さらに、潮の干満营口港(営口)で2m~4m程度のため、浅い遼東湾*7側にも、広い干潟がどの時代にもあったわけだ。

そして、公孫淵討伐記事においても、毎年のようにおこる遼河の洪水(水が留まって流れない状態)が描かれていた。まさに問題の時代に、この一帯に広く「留まって流れない水」があったことは、ちゃんと証言されていたのだ。

おそらく、遼東湾へ流れ出す水の出口を塞いでしまうような位置に砂州があって、どこか上流で大雨が降ると簡単に洪水となっていたのではないか?*8

ちなみにこの地域には、于洪区*9瀋陽)・大窪区盤錦紅海灘という有名な赤い湿原がある)のように水と関わる地理的特性を窺わせる地名がいくつも存在する。(洪・窪。他に沟(溝)・沙(砂*10)など。さらに直接海や川や湖沼にまつわる地名もある。また、洪水を避けられそうな台(臺)地名もある)

 

つまり、当時の「汗人」(汙人)がいたという「烏侯秦水上」は、遼河平原でも鮮卑慕容部のいた遼西側の大凌河河口に近いどこかではないか?

魏の公孫淵討伐に協力した鮮卑慕容部の莫護跋や、その子供の慕容木延高句麗討伐に協力)は、その功績によって魏から率義王(大凌河を少し遡った錦州市義県あたり)に封じられていたのだ。

さらに、東にあったという「汗人國」も、実際にはすぐ近くの遼東側の(水上も含めた)どこかの集落ではないだろうか?

当時は遼河河口も遼陽と牛庄の間(鞍山手前あたり)で、川が縦横に分岐して流れ、さらに砂州潟湖があった可能性も高い。季節的洪水と干満による水量変化砂州が繋がったり離れたり(トンボロ))はあるが、海人好みの安全地帯(シマ)は多そうだ。――ただしこの安全地帯は、鮮卑もなかなか攻め落とせなさそうな場所ではある。(乾季の干潮を狙ったり、陸上に上がったリーダーを拉致するようなことは可能だろうが)

なお、この説は――「汗人」が、鮮卑慕容部も参加した公孫淵討伐の時期に、まさに問題の遼河河口地帯にいた――という意味でもある。実際この時期の鮮卑慕容部は、洪水の時期も含んで遼河河口地帯を越えた遼東側で行動していたわけだが、そこに「汗人」の航海能力が関わってくるのではないか、ということにもなるのだ。(そして、魏の王沈が「汗人」の大雑把な戸数を把握していたことに軍事的な意味があるようにも思える)

ところでこの「強制的リクルート」は、海人的な「汗人」側にとって、安全保障されて珍しい交易品が手に入るならば、結果的に悪い取引ではなかったように思える。待遇が気に入らなければ、いつでも水上に逃げられるはずでもあり。

 

「汗人」のルーツは「倭人」なのか?

そして、ここからが重要な問題だ。

「汗人」のルーツは「倭人」なのか?

「汗人」は海人らしいわけだから、特徴は一致する。

しかし、中国海岸部・大河や朝鮮半島などにも海の民・水人はいて、倭人以外にも「汗人」候補はいるのだ。

ただし、漢民族がそれほど見慣れていない、特徴ある異民族(あるいは部分集団)が候補となる。正体のわかった民族だと、特別に「汗人」と区別して表現される必要性はないだろう。――たとえば、呉や越の海人なら普通にそう書かれそうだ。けれど、蛋民のような人々が当時どう呼ばれたかは定かでない。

 

だがここで、『後漢書烏桓鮮卑列傳では「汗人」でなく「倭人」としている、という事実が再びクローズアップされるわけだ。

そして――鮮卑と倭が友好関係を持っていたこと鞍山羊草荘漢墓と壱岐の関係性・そして遼寧省錦州市大凌河下流部のLiaoningさんのC1a1――といったような、弱い状況証拠も出てくる。*11

だから、確実ではないが、証拠からすれば「倭人」は「汗人」の有力候補だ、ということになるのだ。

 

ここで、今後どんなことが判明すると良いかを書こう。

もちろん、何か過去の考古学的証拠が発見されるのが一番いい。

また、遼河平原などで分岐年代が適当に古い(近年の移住ではない)C1a1だとかD1bのような日本特有のハプログループがなるべく多く発見されると、それで「汗人倭人説」の正しい可能性は強まる。このとき、集中する場所から、過去にいた場所がどこかもわかるかもしれない。

ただし、分岐年代の非常に古いC1a1が中国側のどこかで見つかるようだと、C1a1が古くは日本でなく中国側にいたのでは、ということになる。この可能性も考えておこう。(つづく)

*1:日本にその出土物が渡ってきた年代は、多少は後の年代になる可能性はある。しかし実際の交流は、証拠よりさらに古くから始まっていたか。――『山海経海内北經に、紀元前の倭との関係が記されていたりするところ。伝承の時期ははっきりしないが、紀元前3世紀あたりか。

*2:この三十巻の初めの方にあるのが鮮卑伝。最後のほうにあるのがいわゆる魏志倭人伝。――維基文庫にもある魏志三十巻原文(リンク)。

*3:王沈は、265年の魏滅亡直後、西晋の266年に死去。

*4:後漢書』の「廣從」だと縦横という意味。

*5:この記述の「里」という単位がどのぐらいだったかの問題はあるが、単位の「里」の位置付けからすれば、決して狭い地域ではないだろう。

*6:なお、さんずいを使った「」表記にも「たまった雨水」の意味がある。

*7:広く渤海全体で見ても平均の深さは25m程度しかないそうで、かなり遠浅な海だ。

*8:日本の例だと、大阪平野にあったという河内湖(参考リンク)のような感じ。

*9:」(汙・迂回・紆余曲折など)という文字自体に「つかえて曲がる」意味がある。曲がりくねってるわけだ。

*10:砂州も沙州と書く。地図中に「沙岭」(沙嶺鎮)もある。

*11:Liaoningさんの場合、遼東から遼西ぐらいなら、それほど特別な事情が無くても移住する可能性がある。また、C1a1が古くは日本でなく中国側にいたという可能性もあったりする。