知識探偵クエビコ

人類史・古代史・神話の謎を探ったり、迷宮に迷い込んだり……

遼寧省錦州市のY染色体ハプログループC1の由来はどこにある?(中編補遺)

まさかの中編補遺。

liaoningさんが中編にコメントを付けてくれた。そこで、新しい時代についても追加で、考えを整理する意味もあってまとめておく。

ただし、おそらくliaoningさん(liaoningブログ参照)は新しい分岐年代ではない。

まず、常染色体を調べると北方要素が強くあって、最近の移住とは考えられないようだ。ただ、周囲の人々(地域別・民族別)を同じように分析した場合にどんな値が出るのか、比較がなくて判断に困るが。*1

また前編をまとめた後で、他のC1a1のデータ(未確定含む)をいくつか発見した*2が、まだ今のところ徳島以上に一致するようなデータは見つかっていない。やはりある程度の分岐の古さはある、と言える状況のままだ。

日本の海人集団は、活躍する時代が地域・集団ごとに違う。だから移住元の集団の特定は必要で、日本人側での調査が必須でもある。今のところは徳島など瀬戸内海東部集団(海部などがいる)のほうが候補としては有力だが、地理条件から考えれば有力候補となる(後の時代の倭寇とも強く関係する)九州周辺がちゃんと調べられていないため、断言どころか個人的にも信用できない状況だ)

しかし、一旦どこか別地域を経由して、最終的に現在地の錦州市に移住した可能性はある。

ただここで、「liaoningさん一族の北方要素の強さ」が意味を持ってくる。その程度によって、いつ頃北に来たか、ある程度は推測できるわけだ。――もちろん、近い世代で直接的な混血が多ければ一気に要素が強まったり、交流が少なければあまり影響されなかったり、逆に最近の移住者からも影響されたり、推測の難しい部分は多い。

なお、環境があまり変わらない近隣での移住は最初から想定していた。各種災害や混乱もあり、時代が変われば生業・住居などライフスタイルも変わる。多少の転居は必ずあるものだ。

 

Liaoningさんによれば、郷里の詳しい場所は、凌海市大業郷(大业乡。大业の発音はDàyèらしい)だそうだ。大凌河が平地に出るあたり、川の西岸。

バイドゥ「大业乡」には「大业乡依驻地得名。相传明末有叶氏兄弟从山东迁来,其兄于该地定居,原名大叶堡,后转今名。」とある。つまり地名伝承として、(17世紀初頭前後)に、山東の叶氏*3が移住してきて生まれた「大叶堡」*4が元にあるとされるようだ。*5

もちろん現在の「大业乡」は、複数の集落をまとめた行政区分(人口二万人以上)であるため、その集落ごとに別起源の可能性はあるでしょう。

 

この明(1368~1644)の末期=後金(1616~1636)から(~1912)の始まりの時期は、この地域の歴史を考える場合に注意すべき時代のようだ。

ウィキペディアには以下のような明末の地図があり、大業郷すぐ南の凌海市中心部に「大凌河堡」が描かれている。ここが明清戰爭*6大凌河城の戦い(1631年。大凌河之役バイドゥだとこちら)の舞台であり、争われる最前線だったわけだ。――この戦いで、明側で「船数百隻と共に清に投降」があったことは気になる。これは同時に、清が船数百隻分の明側の船乗りも手に入れたことにもなるだろう。また当時は、それだけの水運の使えた土地であることも意味している。

明末後金地図

そしてこの明末、遼西海岸部(「遼西走廊」という表現もある)は明の領土だったため、満州族のいた中国東北部とは大きく事情が異なっていた。

現在に残る形の長城コトバンクが整備されたのも明の時代*7であり、明が守ろうとした遼西海岸部はその東方延長部分(遼東辺牆「万里の長城」を行き交う人々)の内側でもある。(下図、青紫の線。山海関の東にも長城(辺牆)はあった)

万里の長城地図

明の時点で、山海関から東の地域では、駐屯し居住する兵士などが必要だった。それで山東叶氏も遼西海岸部に移住してきた(伝承)、ということになるのだろう。

ここで、「大叶堡」「大凌河堡」とかの「堡」は、明の時代に(兵士など)移住者の居住地を意味したそうだ。(参考、屯堡*8

なお、秀吉の朝鮮出兵文禄の役(1592~1593)慶長の役(1597~1598))でも明(遼東の兵)とも戦っている。

特に文禄の役で北上した加藤清正尾張出身*9の軍勢8000人(配下に九州勢、肥前の鍋島肥後の相楽*10は、さらに国境を越えて女真族(満州族)とまで戦っていた*11

もちろん日本各地の水軍勢も、陸上部隊や非戦闘員の水夫などの場合を含めて海は渡っている。陣立て記事には「水軍の規模ははっきり分からないが、多くとも約1万数千人程度で、その主力は淡路水軍と紀伊水軍であった」ともある。平戸松浦氏松浦党)・対馬宗氏五島宇久氏の場合、小西行長(堺の商人の息子)の一番隊に加わって平壌までは行っていた。

文禄の役地図

なお、倭寇(日本人以外も密貿易も含む)も明の時代が中心*12で、この朝鮮出兵自体も「倭寇」と表現されることがある。実際、倭寇の日本側有力容疑者は海を渡った軍勢にほぼ含まれていそうだ。(現実に大陸の事情に詳しい、戦いの役に立つ人たちである)

コトバンク「16世紀の倭寇」(中国南部を舞台とする後期倭寇)によれば、「倭寇に参加した日本人は、鄭若曽(ていじゃくそう)の『籌海図編(ちゅうかいずへん)』によると、薩摩(さつま)、肥後、長門(ながと)の人がもっとも多く、大隅(おおすみ)、筑前(ちくぜん)、日向(ひゅうが)、摂津、播磨(はりま)、紀伊種子島豊前(ぶぜん)、豊後(ぶんご)、和泉(いずみ)の人々であったという。船は3~5月ころ五島または薩摩を発し、大小琉球(沖縄、台湾)を経て、江南、広東(カントン)、福建に至った」――活動地域は中国南部だが、ここでは摂津・播磨・紀伊・和泉の瀬戸内海東部勢力も加わっているわけだ)

 

また、Liaoningさんの言う、「中国東北の80%以上が山東省と河北省などから1900年以降拡散して来た」というのは、考えが至らなかった。

清朝時代の中国東北地方には満洲民族以外の普通な人は住居不可でした、現在の中国東北の80%以上が山東省と河北省などから1900年以降拡散して来た人だちです。私の家族は私が知る限り120年以上錦州(大凌河下游)に住んでおります、自分の常染色体の検査結果を見れば祖先はずっと中国の北部にいましたと思います。南方の人と比べれば違いが大きいです。

実は、「戦争と関係ない」と言われた時点で、最近の人口増加は無視していたわけだ。世界のどこでも近代の人口増加が多いことはわかってたが。

しかし調べてみたところ、遼西は地理条件と歴史的事情が違うため、他の中国東北部との違いが出てくる。

 

ここで日本人向けに、明末の話に続く、満州の移民の歴史をまとめておこう。日本人はそんなに知らないわけで。

『中国史』(amazon)『〈満洲〉の歴史』(amazon)と、ウィキペディア闖関東」(中国語版「闯关东」)など、いろいろな項目を参考に。

  • 1644年3月19日(4月25日)、農民反乱指導者・李自成が北京を陥落。最後の明皇帝崇禎帝が自殺し、明は滅ぶ。しかし4月23日には清と明遺臣の連合軍が北京を占領。崇禎帝の葬儀を行い明の後継を主張することで、清は支配を正当化する。
  • 1644年10月19日、清の順治帝が北京に移住。満州族は東北から移住することになるため、1644年から、「土地分給案及開墾補助策」など遼東への移民を促進する政策があった。
  • しかし、本来満州族の土地でなく満州族は居住していなかったはずの遼西海岸部は事情が違っただろう。今度は満州族が遼西海岸部を重要交通路として守らなければならないのだから(実際、清も柳条辺牆を整備している)。現在この遼西海岸部にいる満州族は、おそらくこの時期あたりに移住(駐留)したと考えられる。
  • 1668年には遼東の開墾奨励政策停止。
  • なお、遼寧省シベ(锡伯)族*13は1699年に北から移住させられた。――これは、人の需要があってそれで供給されたことを意味してもいる。(錦州市にもシベ(锡伯)族はいるが、海から遠い北の義県・東の北鎮*14に多いそうだ)
  • 1740年からは、漢民族の山海関外への移民を禁じる清朝満州封禁政策があった。――しかし封禁は完全には守られず、この後も移民はいたという。

    1734満州地図
    柳条辺牆も描かれた1734年の満州地図*15。柳条辺牆の北は内蒙古で、名目上はモンゴル人の地域(Toumetがトゥメト)。

  • この18世紀に中国の人口は倍増して三億を超え、物資不足・インフレとともに食糧需要も大きく、農村は栄え、土地が求められ、移住と開墾が進んだようだ。(『中国史』)
    このとき、移住先の土地は決して無人でなく、そこにいた少数民族が追い出されたり同化政策もあった。ミャオ族が反乱を起こしたり移住し始めたのもこの頃。(これはアジアの人類史を考える場合に記憶しておくべき重要な出来事)
  • 1860年、ロシアの東方進出に対向するために政策が転換し、満州への移住が推進され始める。
    ただし、東北でもより遠い地域が求められる移住先となる。この後の話も移住の玄関口である遼東側が舞台で、遼西はあまり関係してこない。人材が求められたり、金儲けのチャンスは、物資が投下される現場にあるわけだ。――とはいえ元来の遼東住民が、遼東開発と移住者増加~日清戦争時に、比較的落ち着いた遼西に住居を移すことはあり得る。*16
  • 1864年営口遼東半島の北の付け根・当時の遼河河口があった)に新港が建設される。――少し奥に牛荘(牛庄)の港は古くからあったが、土砂の堆積で大きな船が入れなくなっていた。(なお、このあとの日清戦争地図に関係地名は登場している)
  • 1871年日清修好条規。これ以降は公式に日本人が中国本土にいることになる。
  • 遼東半島旅順港も北洋艦隊の軍港として整備される。もちろん港自体は古くからあった。

  • 1894~1895年、日清戦争(甲午战争)で営口・牛庄まで日本軍が占領し、遼河凍ってたとか*17を渡った田荘台も焼き払ってる。――これは1895年3月のこと。

    日清戦争地図

  • 戦後、下関条約(馬関条約)でいくつかの港や都市が開かれる。また遼東半島は一旦日本の領土となるが、すぐに(1895年11月)返還される(三国干渉(日本は山東半島威海衛も一時占領)
  • 日清戦争の頃の港町営口には数十人程度の日本人がいたそうだ。(『〈満洲〉の歴史』)
  • 1899年、鉄道の錦州駅(锦州站)が完成し、山海関駅(1894年完成)を経由する北京との鉄道が繋がった。そしてこの瀋山線は、1911年に瀋陽北駅(当時は南満洲支線上でなく近辺。なお、瀋陽奉天府=盛京=ムクデン)まで繋がっている。*18
  • 1903年遼東半島の旅順・大連とハルビンを結ぶ南満洲支線がロシアによって完成。鉄道で港から奥地に入ることが出来るようになる。――なお、ロシアは1898年から旅順・大連を租借してもいる。

  • 1904~1905年、日露戦争。また遼東は戦場となる。しかしこのときも遼西は戦場にならない。

    日露戦争地図

  • この日露戦争当時、営口には日本人居留民が8000人、旅行者を併せて1万人以上が集まっていたという。(『〈満洲〉の歴史』)
  • 1907年、清が奉天省(後の遼寧省で、それまで東北全地域を統括していた)吉林省黒竜江省*19を設立する。
  • 1912年、清滅亡・中華民国建国。

意識する年代としては、日露戦争(113年前)ぐらいまでで充分でしょう。

つまり、Liaoningさんの120年以上前は、錦州への移住が多くなりそうな近代の時期(鉄道接続の1899年の後)からは外れているわけだ。

 

ここで、満州内モンゴルと中国全体の時代ごとの人口推定がウィキペディア歴史上の推定地域人口#アジアにある。そこに他の統計満州国の人口历次人口普查人口总数分布を加えて表にしておこう。

※人口推定にも人口統計(戸籍に登録されない者がいる)にも、ある程度の誤差はあることに注意。

  • 1000年 400万/全体6600万
  • 1500年 500万/全体1億1000万 (明末の前)
  • 1700年     /全体1億6000万 (清中期)
  • 1800年 600万/全体3億3000万 (倍増。それだけでなく流出もある。そして満州地域も増えてはいるが、封禁の影響はあるようだ)
  • 1850年 700万/全体4億3500万
  • 1875年 1000万/全体4億1500万 (封禁終了後、満州の急増が始まる)
  • 1900年 2000万/全体4億7500万
  •  1908年 満州1508万
  • 1925年 3700万/全体5億3000万
  •  1932年 満州国2929万
  •   1937年 満州国3667万(漢族81%、満族12%、蒙古族3%、朝鮮族3%、日本人1%)(『〈満洲〉の歴史』)
  •  1942年 満州国4424万
  • 1950年 5000万/全体5億9000万
  •  1953年 遼寧省1855万・吉林1129万・黒竜江1190万・合計4174万/内モンゴル610万/全体5億9435万
  •  2010年 遼寧省4375万・吉林2746万・黒竜江3831万・合計1億0952万/内モンゴル2471万/全体13億3972万

 

また、言葉や風習は移住元の影響を残す。(Liaoningさんの家族の言葉・風習の中にも、もしかすると何か古い要素が残ってるかもしれない)

山東省からの移住者が多かったため、遼東半島山東の方言(胶辽官话)なんだそうだ。

中国方言地図

緑色の及ぶ地域(東北端にもある)は、特に山東半島からの移住者比率の多かった地域だと考えられる。

また、ピンクの冀魯官話(河北、山東西部)も分布が飛んで東北にある。

1934年の調査によれば、移住者に占める割合は、山東省76%、河北省9%だった*20という。(『〈満洲〉の歴史』)

残る東北地域は东北官话(東北官話)だが、これは北京官話(現代標準中国語とは多少異なる庶民的な方言)に似ているそうだ。

つまり、東北官話の地域は、元からの住民+いくらかの北京官話移住者の勢力が、言葉が維持される程度に強かったのではないかと考えられる。*21

そしてここでも錦州は、東北官話地域であり、山東方言・冀魯官話の地域から外れているわけだ。

 

結論としては、やはり近代の移住を心配する必要はそれほどない。

もしもLiaoningさん一族の北方要素の程度があまり高くない場合は、比較的近年の、明末~清の時代あたりでの南からの移住を考える必要があるかも知れない、ということになるわけだが。

山東半島から南を経由するということならば、日本からの到着パターンはいろいろあり得る。ただし、条件のあまり変わらない遼東など北の近辺地域からの移住ならば、南方要素が低くても不思議ではない。――経由した地域によって、他の地域集団・民族との関係が多少ある(見つかる)と考えられるところ。地域別データがあれば比較可能だ。

 

そして、分岐年代+分岐元がわかれば、日本からの移動年代がわかる、ということになるだろう。分析には少なくない誤差はあるが、桁の違う数百年程度と1000年以上の違いならば、区別はできそうだ。

ただし、誤差の大きい判断の難しい年代が出る可能性もある。過大な期待はしない。

 

これで先に進めるか。 

 

*1:また出てる分析も、分類の境目がどこにあるのか判断が難しい。最初三つは地域による分類らしいが区切りが違っていて、Baloch(istan)BeringianGedrosiaみたいな国境をまたいで国を分割する可能性のある範囲の不確かな名称も入っていたり、基準がどこにあるのかわからず、「East Asia」がどこまでを指してるのかも判断が付かない。四番目MDLPは一転して語族別分類のようだが、ここにもArcticSiberiaのように区切りのわからない分類が混ざってる。分類はいつでも難しい。

*2:別件だが、済州島のC1a1の特徴と同じDYS439=15の茨城のサンプルならばあった。しかし他の部分に結構違いがあって、済州島データとはそれほど一致しない。またこれは、(C1a1と推測できるようなSTRデータだったが)Y染色体ハプログループを調査・確定していない論文だった。

*3:聊城のこの記事の人たち(リンク)と関係するのか?

*4:中国で「业()」は「」(「」)と同音だとか。

*5:一般的に地名伝承は、後付けで解釈されている場合が多いため、正しいとは限らないことに注意。異説があることも多い。

*6:日本語ウィキペディアだと項目自体がない。ヌルハチ(1559-1626)のこのへんホンタイジ(1592-1643)のこのへん

*7:秦などの時代には長城の場所が違っていた。ただし山海関の元になった関北斉~隋の時代にはあったそうだ。

*8:リンク先は貴州省の例であるため、文化面や兵士の郷里だとか事情はいろいろ違うだろう。

*9:1562年、現在の名古屋市中村区生まれ。秀吉と同郷でしかも親戚。ちなみにヌルハチの3歳年下。

*10:基本的に九州など西日本勢中心で軍は構成されていた。(文禄・慶長の役#日本軍陣立

*11:ただしヌルハチの勢力とではないようだ。遼東の明兵が日本軍に対応していたこの時期に、建州女真ヌルハチは大きく勢力を伸ばしたとされる。

*12:なお、明は倭寇対策もあって、ずっと民間の海上利用を禁止・制限する海禁策をとっていた。しかし逆にこの政策が離反者(密貿易・海賊行為・人の流出)を生み出して「倭寇」を増やすという悪循環もあったようだ。そして最終的には、海禁を緩和したところ倭寇は沈静化に向かったわけだ。

*13:満州族女真族)の一支族とされたり、女真化した鮮卑などとされる。言語は満州語と同様にツングース語族。

*14:ヌルハチ存命中の1622年に後金に占領されていた錦州市の東北地域。明末後金地図でもここまでは後金領になっていた。(北鎮は当時広寧(广宁)だった)

*15:ちなみに大凌河沿いの一文字地名「y」は、錦州市北部の義県(Yi County)でしょう。ここまで壁の内側、満州族の聖域だ。

*16:Liaoningさんの場合も、「錦州には少なくとも120年以上前からいた」というタイミングからすれば、すぐ近所の遼東側から移住した可能性はあるのかもしれない。(他の地域からの移住者だと、とりあえず最初はチャンスの多そうな地域を目指すのが普通だろう)

*17:愛媛県史による。そういえば秋山好古真之兄弟は愛媛県松山出身で四国勢だ。

*18:周囲の駅を調べると、山海関に近い葫芦岛站が1898年、錦州の先は大虎山1900年、绕阳河1901年、瀋陽大红旗新民1903年、遼河を渡って三台马三家1906年完成。瀋陽北駅直前の皇姑屯駅は1907年完成とある。瀋陽中心部との接続だと皇姑屯駅の1907年のほうが正しい数字だろう。

*19:いずれも領域は現在と違っている。また、あえて中国語版ウィキペディアにリンクした理由はもう一つある。各地の行政組織の設立年代で、各地域に人が増えて管理の必要になった年代もわかるのだ。

*20:これは範囲が違う当時の河北省・山東省のはず。当時は北京の北に熱河省(だいたい北京官話地域)があったり、区分の違う統計しかないはずだ。

*21:清の支配者だった満州族こそが、北京と東北にまたがっていた人々だ。なお、満州族ももはや満州語をしゃべらないそう。

遼寧省錦州市のY染色体ハプログループC1の由来はどこにある?(中編)

今回は、歴史的可能性の検証だ。

 

まず最初に、結論に近い衝撃的な話を先に書いてしまおう。

自分としては、このLiaoningさんの件は、後の三燕(前燕後燕北燕)まで含めて、鮮卑に関係している可能性は大いにある、と考える。

実はこれは、鮮卑・三燕と関係する大凌河下流側で、ついに日本特有のレアなハプログループC1a1が出てきちゃった、という検証必須の重大事態なのだ。

つまりこれで、鮮卑と日本は、倭人の海人(C1a1)が自ら航海することで直接交流していた――鮮卑側だけが日本にやってきたのでもなければ、朝鮮半島勢力経由の間接交流でもない――可能性が高まったんじゃないか(ついに物的証拠が出たんじゃないか)、ということになってるわけだ。

このとき、既に「倭人」の出没が中国文献などで言及されていること、海人だったのは倭人側であり騎馬民族鮮卑が本来航海能力を持たなかったことは、もともと倭人側が航海する直接交流のあった可能性を示唆していたはずだ。

遼寧省錦州市地図

遼寧省文物考古研究所との友好共同研究 |JCIC-Heritage(出土品などの画像あり)

 中国遼寧省の西部地域には、4~5世紀頃、鮮卑(せんぴ) 族による前燕(ぜんえん) ・後燕(こうえん) ・北燕(ほくえん) という国家が樹立され、これらを三燕と呼び慣わしている。この三燕の時期は、日本では古墳時代に相当し、特に武器や武具などの面で、日本の古墳文化に強く影響を及ぼしたと考えられている。この遼寧省を中心とした三燕時代の墳墓出土品や都城遺跡の調査・研究、ならびに文物の保存と遺跡の保護は中国遼寧省にとってだけでなく、日本の原始・古代史研究にとっても重要な意味を持っている。

また同時に、そこで継続的に在住・交流してC1a1の子孫を残した者たちもいた(倭人を含む集落が実際にあった)。そしてその子孫こそがLiaoningさんだ、という理屈にもなるわけだ。

 

またこれは、既にした2世紀末の檀石槐の話とも無関係ではない。倭人はいつ頃から周辺地域に出没していて、鮮卑といつどこで出会い、歴史的に見てどの時点から交流して影響し合ってるのか(両者の交流の影響が出始めたのはいつ頃からか)、絡み合った可能性の追求と検証になるわけだから。

 

ただ、他のいろいろな可能性の洗い出しや内容の検証は、どうしても必要となる。確率が低そうな場合でも、その可能性をひととおり確認はしておきたいのだから。

 

これは衝撃的だ。ただ、あまりにも重大な事態のため、とりあえず中編・後編に分けます。どう考えても短い簡単な説明では済まないし、丁寧な調査も必要だ。

鮮卑と倭が直接結びついていた――遠交近攻のセオリー通りであるうえに、お互いの得意分野(馬と船)を生かすことのできる(周囲の国から見れば凶悪な)組み合わせ――と考えると、これは東アジアの古代史そのものなのだ。

だから(後編では)、魏志倭人伝邪馬台国)・三国志倭の五王三韓征伐好太王碑文など、思いつく限りの簡単には扱えないメジャー題材が回避不能で絡んできます。ただし、真面目に扱ったら本になるレベルの題材ばかりであるため、ほどほどに触れざるを得ない(内容を絞る必要がある)ことをお断りしておきますが。

(つまりLiaoningさんの件は、学術的影響が大きいのだ。だからちゃんとC1a1の詳細や古さを確認したいわけでもある)

なお、ウィキペディアに「倭・倭人関連の中国文献」というまとめ項目があったため、直感だけでも檀石槐の話は選び出せていた。しかし今回の件で調べるのは「倭人」限定ではなく、もっと後の時代も含め、さらに幅広く深く調べます。

 

というわけで、ここから中編の本編だ。今回は、もっと新しい時代の可能性を見ていく。

 

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スマトラ島でも73,000~63,000年前の化石発見――続報:ヒトが初めてオーストラリアに到達したのは約65,000年前だった

スマトラ島で重要な化石の発見があった。これは前々回のオーストラリアの発見に続くニュースでもある。

【考古学】現生人類のインドネシア到達の歴史を書き換える化石の発見 | Nature | Nature Research

現生人類がインドネシアスマトラ島に到達したのは、トバ山の壊滅的噴火より早い73,000~63,000年前だったことを示唆する新たな化石証拠について報告する論文が、今週のオンライン版に掲載される。今から60,000年以上前に現生人類が東南アジアに存在していたことを示す遺伝学研究が報告されているが、実際の化石証拠は極めて少なく、間接的なものだった。

スマトラ島のパダン高地にある更新世の洞窟(Lida Ajer)には豊かな多雨林動物相があり、19世紀後半に初めて行われた発掘作業でヒトの歯が2点見つかった。今回、Kira Westawayたちの研究グループは、Lida Ajer洞窟を再び調査して、これらの歯が現生人類に特有なものであることを確実に同定した上で、3種類の年代測定法を用いてこれらの化石の年代を決定して確実な年表を作成した。つまり、Westawayたちは、赤色熱発光法とpost-infrared infrared-stimulated luminescence(pIRIR)法によって堆積物の年代を測定し、この洞窟に関連する洞窟生成物の包括的な年代をウラン系列年代測定によって決めることで埋没年代を決定したのだった。

論文はこちら。

An early modern human presence in Sumatra 73,000–63,000 years ago

論文地図

 

このトバ山というかトバ湖(Lake Toba)(下図。長さ約100km、幅約30km*1)は、同じスマトラ島にある。噴火(トバ・カタストロフ)の最新の推測年代は73000年前とか74000年前だから、数字としては噴火よりわずかに後。しかし、「73,000~63,000年前」の数字を出すためには、それより前の時点でインドネシアに到着しなければならない。また、出アフリカはさらに前の年代になる。

トバ湖(Lake Toba)

 

次のニュースはタイトルだけ見るとオーストラリアだが、中にスマトラの話が書いてある。

6.5万年前に豪州進出か=現生人類、遺跡に居住跡:時事ドットコム


英語のニュースを読むと、 やっぱりトバ(Toba supervolcano explosion)が主役だった。こちらでは、噴火を見たかも知れないとか"just in time"とか、まさに噴火の災難の時にいたというニュアンスだ。

 

なお、出アフリカがトバカタスロフより前だと主張する論文(Pagani 2016)も引用されていた。

Genomic analyses inform on migration events during the peopling of Eurasia.

同じ論文だが無料。 https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC5164938/

We find a genetic signature in present-day Papuans suggesting that at least 2% of their genome originates from an early and largely extinct expansion of anatomically modern humans (AMH) Out-of-Africa (xOoA). Together with evidence from the Western Asian fossil record, and admixture between AMHs and Neanderthals predating the main Eurasian expansion, our results contribute to the mounting evidence for the presence of AMH out of Africa earlier than 75kya.

 

やっぱり、出アフリカはトバカタストロフより古いか。

 

*1:ちなみに阿蘇カルデラは、南北25km、東西18km。