ほぼ完全な弥生期の人骨出土 佐世保市・高島「宮の本遺跡」発掘調査
このニュースに反応しておこう。これも最近の海人話と無関係ではないのだ。
場所は長崎県の西海岸、九十九島の中にある高島(佐世保市高島町)の宮の本遺跡(長崎県公式・佐世保市公式に図や写真がある。縄文時代草創期から古墳時代の複合遺跡)。
ここは旧松浦郡であり、松浦党・末廬国・家船など海人たちの領域だ。
以下、引用をたくさんやるが重要部分はこちらで勝手に強調する(色つけなど)。
長崎新聞ホームページ:【県内トピックス】ほぼ完全な弥生期人骨出土 (12月6日)
佐世保市の離島、高島(高島町)にある「宮の本遺跡」で、市教委は11月から本年度の発掘調査をしている。遺跡ではこれまでに弥生時代の人骨が40体以上出土。今回は新たに3基の石棺墓を確認し、うち1基からほぼ完全な状態の人骨1体が見つかった。今後科学的な分析を加え、詳しく調べる。
遺跡の調査は昭和50年代に始まり、昨年26年ぶりに再開した。本年度は11月7日から12月15日までの日程で、約150平方メートルの区画を調査。墓地の範囲などを確かめている。
今回出土した人骨は弥生時代中期ごろのもので、頭蓋骨や骨盤の形状から若い女性とみられる。長さ約160センチ、幅約30センチの石棺に入っていた。足を伸ばした状態で埋葬する伸展葬で、副葬品はなかった。
遺跡の場所はかつて砂浜だったとされ、海上交易に携わった民族の可能性がある。これまでの調査で墓地は南北約260メートル、東西約60メートルに広がっているとみられる。市教委は「今回で北限は確認できた」としている。今後、数年は調査を続けるという。
調査を担当した学芸員の松尾秀昭さんは「墓地以外に生活用具や住居の跡などは見つかっていない。今後は当時、人が暮らしていた環境を明らかにしていきたい」と話している。
この毎日新聞の記事には、「宮の本遺跡は1977年8月、住居新築工事中に石棺五つが発見された。これまでの調査で55基の墓から43体の人骨が出土」(今回石棺墓+3で、その中でほぼ完全な一体の人骨が出た*1)という数字の詳細がある。
「今後科学的な分析を加え調べます」だから、これからどうなるかに注目したいニュースだ。
記事中にあえて「弥生時代の人骨」とあるが、これが「弥生人」と同じ意味ではないことに注意。(後でまた触れる)
そしてこの宮の本遺跡は、沖縄から北九州を経て北海道にまで至る、南島産貝製品(貝輪。材料はゴホウラ・イモガイ・オオツタノハ(貝の考古学(忍澤成視))*2の交易と関わる遺跡でもある。
九州沿岸地域の島嶼間における原始・古代の文化交流に関する研究 上村 俊雄*3
キーワード 南島産貝製品 / ゴホウラ製貝輪 / アワビ副葬の埋葬習俗 / 支石墓の下部構造 / 箱式石棺墓 / 地下式板石積石室墓 / 宮の本遺跡 / 浜郷遺跡
研究概要 日本列島の近海に沿って流れる黒潮は、一つは九州の西を過ぎて日本海に入り本州および北海道の西岸を洗い、他の一つは太平洋岸側の伊豆諸島に達している。本研究では、黒潮の流れに乗って原始・古代の南島および大陸からどのような文物が往来したのか、また九州沿岸地域にどのように影響を及ぼしたのかなどについて調査研究を試みた。調査研究の対象を1.南島産の貝製品(ゴホウラ・イモガイ・オオツタノハなど)、2.大陸の関係の深い支石墓の2点にしぼり、壱岐・対馬、五島列島などの島嶼および西北九州を中心とした九州西岸の沿岸地域を調査した。1のテ-マの南海産貝製品のうち、ゴホウラ製貝輪は有川町浜郷遺跡(五島列島)、平戸市根獅子遺跡(平戸島)、イモガイ製貝輪は佐世保市宮の本遺跡(九十九島中の高島)、五島列島の福江島大浜貝塚・中通島浜郷遺跡・宇久島宇久松原遺跡、オオツタノハ製貝輪は宇久松原遺跡・福江島大浜貝塚などで出士している。また、埋葬人骨にともなうアワビの副葬列が中通島浜郷遺跡、福江島大浜貝塚で確認されたが、同様な列は沖縄本島読谷村木綿原遺跡にもあり、弥生時代の五島列島と沖縄に共通した埋葬習俗が見られることは注目される。南海産貝輪は九州西海岸をかすめて北九州へ運ばれるル-トの中で五島列島へもたらされたと考えられる。2のテ-マの支石墓については、甕棺・土壙・箱式石棺などの下部構造について調査した。九十九島の宮の本遺跡、五島列島の宇久松原遺跡・神ノ崎遺跡(小値賀島)・浜郷遺跡などの箱式石棺墓の中に南九州特有の古墳時代の墓制である地下式板石積石室墓を想起させるものがある。地下式板石積石室墓の祖源は縄文時代晩期の支石墓に遡る可能性を示唆しており、五島列島方面から南九州西海岸に到達したものと考えられる。この見解については平成3年11月9日、隼人文化研究会で「地下式板石積み石室墓の源流」と題して口頭発表をおこなった。
ここで、上村俊雄さんの研究成果にある「沖縄出土の明刀銭について」も重要だ。明刀銭は中国戦国時代の東北部にあった燕のもので、沖縄と中国東北部を結びつけるような交易も紀元前にあったわけだ。
城嶽(グスクダケ) 那覇市歴史博物館:那覇市内史跡・旧跡詳細
大正末から昭和初期にかけて発掘調査が行われ、中国の燕国(えんこく)(BC409 ~ 36年)の貨幣であった「明刀銭(みんとうせん)」や、沖縄では産出しない「黒曜石(こくようせき)」が出土した。
(ここで、沖縄で黒曜石の交易もあったことは非常に重要。これも相当に古い時代の交流証拠だ)
さらにもう一つ、かなり古い(1997年)が重要な情報がある。
長崎大学出展人骨資料 特集 日本人類学会・日本民族学会連合大会50回記念
宮の本遺跡(図2-B)
長崎県佐世保市相浦港沖の高島の砂丘上に形成された埋葬と周囲の包含地よりなる遺跡である。1977年から80年の調査で根獅子遺跡と同時期の人骨39体(成人骨30体)が出土している。コルマン及びウイルヒョウの上顔示数がそれぞれ44.9(1例),57.9(1例)を示し,推定身長値は162.6cm(2例)で西北九州地域の中では高身長である。
そして。(他の長崎県の遺跡の情報も一通りあり)
内藤ら(1981a,1981b,1984)は,縄文人と強い類似性を示す西北九州弥生人の分布が,長崎県本土の西端部,五島列島,熊本県の離島天草だけでなく,大陸にも近い玄界灘に面する地域にまで広範囲に及び,脊振山系を境にして東と西の弥生人の形質には差があったことを明らかにした。
この古い文章で引用されたさらに古い文章は、西北九州の「弥生人」と書いてしまってる。
しかし、これは弥生時代の人間だけれども遺伝的には縄文人系統の影響が強い可能性があるんじゃないのか、ということになる。だからこそ、遺伝的にちゃんと調べるべき、ということになるわけだ。
そして、現代の住民を調べることも有効であるはずで、充分に面白い結果が出てくるはずでもある。日本はどこを調べても縄文に繋がるハプログループがたくさん残っていて、しっかり出てくるんだから。
長崎は離島も多い(五島列島だけでなく対馬や壱岐も長崎県)ため、それぞれに個性的なデータが出てくると思われる。歴史的に松浦党も家船文化もある。また、出雲の話で方言に触れたとき、九州の中で長崎方言(長崎市中心)だけが東日本側の奇妙な位置にあったり、何かと面白いデータが出てくる場所でもある。