知識探偵クエビコ

人類史・古代史・神話の謎を探ったり、迷宮に迷い込んだり……

記事を金銭化する手段はないものか

ところで、記事を買ってくれたり、どこかに書かせてくれる人はいないですかね?

論文読んだり手間がかかることも多くて、どこかで多少でも対価が発生してくれないと、時間と金銭的に続けるのが難しい。

 

それとも、こういう記事を書いていても成立するような、いい広告モデルがあるんだろうか。

遺伝関係とか、現在の常識より先の話を書いてると、売れる物もほとんど無いし、他の手段が欲しい。

 

そういう意味じゃ、売り物がいくらでも探せる歴史関係やってたほうが楽。

でも自分自身のセールスポイントとしては遺伝学側になる。

 

どうにかならないものか。

術式の論理――祟りに対する怖れと、祭祀に対する信頼

前回は、歴史記録の記述、及び、祭祀の問題に踏み込んだため、付け足し。

遺伝学とか生物学じゃないから、基礎的なところは説明が必要だ。

 

祭祀とか、呪術的宗教的な儀式には、もちろんそれぞれの論理がある。

その術式の論理を踏み外すような想定は、やはりおかしいわけだ。

 

そしてここには、祟りを信じる心があり、祟りに対する怖れがある。

その祟りを避けたり鎮めるための祭祀があり、その祭祀の術式に対する信頼もある。

それは何も特別なことでなく、現代でも日本人は神社などで、定められた祭祀の術式(しきたり)に従って祈ったり、いろいろ儀式を行ったりするわけだ。

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大和神社大祓における茅の輪(画像元

 

そしてこの祟りへの怖れは、古代のほうが影響力が強かったと考えられる。

 

この怖れは、日本書紀*1のような記録においてもつきまとってくる。

もちろん日本書紀のような公式の書物には、意識的にも無意識的にも、特定の立場に立った作為(造作)や思い込みが入るだろう。

さらにそこに、後から記録を編集するときの作為や誤解や思い込みや偏見の要素も付け加わる。

そのような変形は多いと考えざるを得ないものだ。

 

しかしそこには、迂闊に手を出し変形するわけにはいかない要素もある。

なにしろ、祟られてしまうのだから

実際に害が及ぶと信じられているのだから。

そして、言葉や文字にも霊力はあると信じられているのだから。

 

そしてむしろ、祟られるが故に、しっかりと記録に残しておかなければならない事柄もあるわけだ。

日本書紀は、天皇家の子孫が読むためにも書かれているわけだから、祟りの情報は記録しておく必要がある。我々は祟られていないと無視するわけにはいかず、祟りこそ記録しなくてはならない。

祟りを認め、引き受け、記録し、そしてなんとか鎮めていかなければならないわけだ。

南海トラフ地震津波の様なものも、引き受けるべき祟りとして受け止められたのかもしれない)

 

椎根津彦

椎根津彦倭(やまと)の名に関わることは、初めから重要だと考えていた。

しかし最初は単純に、倭の名を名乗る海人がここにいる、という認識であり、王など権力とは全く関係ないものだった。それでも彼らこそが海外に出て行って、「倭人」とされる可能性を持っていると見たわけだ。

 

これが別の考えとなったのは、日本書紀崇神天皇のところにある次の記述を、原文で読んでからだ。

「天照大神 倭大國魂二神 並祭於天皇大殿之内 然畏其神勢 共住不安」*2

これ以下の記述で、「倭大国魂神」は「天照大神」と二神並べて、明らかに同格で怖れられている。

そして天皇家だけでは鎮めることのできない、「倭大国魂神」の祟りを鎮めるため、倭国造の一族の「市磯長尾市」を神主とする。

 

ここで重要なのは、その後の時代変化で理由は忘れられてしまったかも知れないが、倭大国魂神はアマテラスと同格で怖れられる神だったことだ。

そして、この神を鎮めるのが倭国造の一族であり、つまり椎根津彦の子孫であることだ。

 

すると倭大国魂神は、術式の論理からすれば、本来は倭国造の神だと考えられる。そうやって正しく祀ることで祟りは鎮められるわけだ。

しかもアマテラスと同じレベルで怖れられていた。

つまり倭大国魂神倭国造は、本来はアマテラスとそれに関わる者たちと同じレベルで重要な存在だったのだ、と考えられるわけだ。

この時、他の神の名前が怖れるべき対象として出てこないことにも注意していただきたい。

倭大国魂神は、その時点でそれだけ重要だったのだ。

そしてこの怖れは、祟りを避けたいと真剣に考えている限り、偽って書いたり造作できるような対象ではないはずだ。

(なお、「忘れられない限り」という条件を付けてもいいが、倭大国魂神が現在も大和神社で祀られていることに関しては変わりがない。この場合、たとえ本来の理由が忘れられたり変形してしまっても、神社」という術式としては忘却されていないことになる)

 

そのつもりで日本書紀などを読めば、気になることはいくつも見えてくる。

たとえば、祭祀に使う天香山(アメノカグヤマ)の土を取っているのは、神武天皇ではなく、椎根津彦と弟猾(ヲトウカシ)である。

ここで、「土を取る」という行為は、誰がやっているかに強い意味のある、非常に象徴的な行為ではないだろうか?

そのあと椎根津彦は、一見すると神武がやっているように見える祭祀において、突如として口を挟み(「時椎根津彦見而奏之」)、祭祀をした結果を報告している。

この場合も、どう祭祀をするかを神懸かりして語ったのは神武であっても、実際に祭祀を行ったのは椎根津彦なのではないだろうか?

 

初代天皇・神武

話はこれだけで収まらない。

そもそも神武天皇初代天皇なのだから、どれだけ修飾し持ち上げられていても、もともとの日本書紀の公式的見解においても、生まれついての全体の支配者ではなかったはずなのだ。

(最初から一地方の王の息子だったことはあり得る。*3

最初は支配者でなく、どこかで支配者になったのが元の伝承であったと考えられ、それ故に、他の誰でもなく神武こそが初代天皇とされたはずなのだ。

(たとえば、崇神天皇などは初代天皇とされていない、わけだ)

 

実際には、日本書紀には神武の即位もしっかりと書かれている。この即位は隠されていないし、秘密でも何でもない。

それはずっと後、媛蹈鞴五十鈴媛命を妃としてからだ。

それまでは、日本書紀の本来の公式的見解としては、正式に即位していなかったことになるはずだろう。

(なお、古事記*4においても婚姻を境に呼び方が「天皇」へと変わる。それ以前は「天神御子」だ)

 

しかも、戦いによる王位の簒奪などではない。ということは、即位以前の実際の支配者は、神武周辺の記述に出てきていてしかるべきなのだ。

するとそこでもっとも王らしき行動を取っていたのは、やはり椎根津彦、ということになる。

しかも神武と椎根津彦は、最初から最後までずっと友好的な関係を保っており、一定の信頼関係が認められる。

本来この神武伝承は、中国の伝承のように、徳のある者への王位の禅譲の形だった、という可能性もありそうだ。

ただここで、両者の関係がいいほど、全体的な王位を継げなかったらしき直接の子孫(倭国造)との関係は問題となる。

実際にはどこかのタイミングで武力で倒されている可能性もあるわけだから。

 

また、椎根津彦倭大国魂神の側であるなら、対となり怖れられるアマテラスも問題となるところだ。

そしてこれがおなり神信仰とも関係するかも知れないわけだ。

椎根津彦の相手の女の根神もいるはずであり、それがアマテラス信仰集団と関わるのではないか、ということにもなる。

そして、媛蹈鞴五十鈴媛命との婚姻を持って神武が即位することを考えると、この両者の関係も問題となる。

ここにもおなり神信仰のような関係性は想定でき、この媛蹈鞴五十鈴媛命も非常に重要なのだ。

 

倭大国魂神とは大きく異なり、その後アマテラスは皇祖神ともされる存在となるのだから。

 

*1:原文つきの本(岩波など)をお勧めするのが筋。とはいえ、読みのは大変で、まずは大まかにわかりやすいところから入って構わない。それに、そこで誤解や思い込みや偏見の要素を知ることができたりするわけだ。物語を面白くわかりやすく語ろうとすると、どんな変形が入るか、など。

*2:これは古代史獺祭 日本書紀からの引用。日本書紀にはいろいろな写しがあり、国会図書館デジタルライブラリーなどにも複数の電子書物があるが、お手軽に人様のサイトのテキストのコピーをします。

*3:しかし、神武東征集団を最初に率いていたのは兄の五瀬命のように見える。

*4:古事記も原文付きを読むのが筋だが、やはりとっつきやすいところからでいいでしょう。

三系統のY染色体ハプログループD1b+α(続き)

全体的な傾向をつかんだところで、もっと細かく地域的な傾向を見ましょう。

今回は最初から、C1a1も含めたβ版の内部比率を載せる。

※2016/12/20 アイヌのデータを訂正。図と文章の一部も修正しました。

※2018/3/10 県別のβ版データのD1b1a・C1a1やDの総数などを、YHRDの正式なデータにより正式に確定し、今回の県別のデータに関しては部分的に内容修正しました。(※ただし、D1b1・D1b2の内部比率はβ版予測のまま(合計は確定)*1)――β版もだいたい合っていたため、大まかな傾向は変わっていない。しかし、昔のデータでD1b1a最高比率だった群馬が、2位にいた長崎(海人問題の鍵を握る)に、わずか0.2%抜かれトップを奪われるという(ほぼ一緒でも)象徴的意味を持つ修正*2が起こっていたり(群馬のデータ総数が増えて比率が微減した影響もある。そのため長崎BはD1b全体比率でも群馬Bを抜き本土側では最高比率となった)。また、長崎ではC1a1も1増加し、わずかな変化だが面白いことになっている)

 

サンプル数がさらに少なくなるため、今回はβ版に頼らざるを得ない。ただし、Bのついてないのは論文のみのデータ。(※2018/3/10、以下データ画像修正と追記。太字部分+総数は正式確定)(東京・静岡・沖縄はサンプル数が多かったため、内容比較のため論文データと分けて二つ載せた。沖縄と静岡はわりと違い、これは調査集団の違いの影響だと思われる。北海道Bは旭川を分割。九州は、九州のどこを集めたかわからないHammerのデータが、福岡や長崎と違う傾向を持っていたため、ある程度南九州の不足するデータを含むのではないかと期待して個別に引用した)

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で、この表はさらに地図の助けが必要となる。それが前回も載せた次の地図。このデータの地域には、日本海側や東北などに大きな欠落があるため、その場所を認識し、欠落部分も推測する必要があるわけだ。*3

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(グレーはデータがない+非常に少ない場所。ただ長野と埼玉は少ないが存在傾向が伺える程度のNonakaデータ(周囲とも似てる)はあった。また、大阪・石川・神奈川はそのNonakaにSato(サンプル数の多い大阪市金沢市川崎市)を加えたD1b1a・C1a1の比率*4。茨城はKimによるC1a1のみの比率)*5

  • やはり宮城のD1b構成はアイヌに似ていて独特。データの欠落する東北の周囲がどうなってるのか知りたい。
    (なお、青森などが違う原因の考察はもうちょっと後でまとめて。参考になる材料は続々と出てきますんで)
  • 北海道は旭川サンプルが独特だったため最初のデータとなっていた。(ひょっとするとD1b1は旭川を含む特定の地域(どの方面へどの程度の拡がりを持つかは不明)で多い傾向か)
    残りの北海道データは北海道のどこを調べているかわからないが、こちらのバランスは日本の他の地域とあまり隔たっておらず、これが新しい移民だとしてもそんなに問題はない。
    がしかし北海道には、渡党やそれ以前の青森などからの移住の歴史(日本海ルートの歴史)もあり、三内丸山遺跡などとの関係性はかなり古くまで遡る。縄文時代の文化圏でも分かれていたわけだから、アイヌでも新しい移民でもない西南地域の勢力の子孫たちも、別に評価する必要があるようだ。
  • ちなみに三内丸山遺跡は次の図のような交易が5000年前にはあったという。(三内丸山遺跡公式より)f:id:digx:20161101023144g:plain

  • アイヌも、太平洋側の日高アイヌばかりでなくオホーツク海側を別に調べるべき。
    オホーツク海アイヌはもっとずっとオホーツク周辺民族と似ているかもしれない。
    太平洋側でしかも西寄りの日高だと、地理的に西南の青森系集団との関係のほうが強く出ておかしくない。
    日高アイヌで出たC2の事情などでも、本当に「オホーツク文化の影響を受けた」のか問題がある。
    (このへんはアイヌに関するADMIXTUREも見ていたりするところ。アイヌ学入門 - murawaki の雑記 - rekkenグループに、僕も参考にしたアイヌ関連の論文の紹介があったりします)
  • 2016/12/20追記。このアイヌデータにサハリンアイヌが数名*6入っていたようだと判明。するとこのサハリンアイヌ側にはオホーツク文化の影響は大きく出ていると考えられる。ただし同時に、サハリンアイヌ以外の日高アイヌオホーツク文化の影響があったのか、気になっていた問題はより大きくなったことになる。*7
  • 日本海側のデータは推測が必要だが、青森・山口・兵庫は日本海側にも拡がっていて、ある程度参考にできそう。(ただし兵庫は、播磨+但馬+淡路+摂津の一部(人口の多い神戸など)+丹波の一部など、と複数の旧律令国の集合体。しかも日本海側但馬の人口が少なく、意識して集めていない限り、ほとんどサンプルに入っていないか)
  • 兵庫と山口でD1b1aの比率が特別高い。しかし間の岡山ではそれほどでもないため、日本海側、出雲(島根)のデータが非常に気になる。おそらく出雲もD1b1aは高比率(あくまでもD1b内部で)だと考えられるのだから。*8
    兵庫と言えば、瀬戸内海側でも『播磨国風土記』に、オホナムチ・アシハラシコヲそしてノミノスクネといった、出雲王朝と関係する者たちが繰り返し登場している。摂津(兵庫側)だと西宮神社大国主西神社)など。淡路は松帆銅鐸が出雲と共通の鋳型を使ってるとか。
    なお、出雲と岡山(吉備)勢力との関係が問題になる場合もいろいろあり、播磨にも吉備の名(吉備津彦)の記述古事記の(欠史八代孝霊天皇のところにあったりする。*9
    もちろん、日本海側の交易ルートは相当に古代からずっと存在したと考えられる。(黒曜石とかヒスイとか、出雲関連の伝承(スサノオ大国主国引き神話など)とか)
    山口も近くの出雲と無関係で済まない。*10
  • D1b1aは全体比率だと群馬がトップ。ただこの東や北の情報がわからず、原因も影響範囲も絞り込めない。馬単独でも特殊な事情は思いつくが、もっと東が多いなら共通する事情を考えるべき、って事になる。
    D1b1aが多い関東と少ない東北の間のどこかに、大きく勢力の切り替わる場所が必ずある、でしょう。
    これも東北が違ってる問題の一環。たとえばアイヌ語地名の範囲との関係はあやしい。日本には孤立した言語として日本語とアイヌ語が両方ある以上、この違いは相当に昔からあった(ひとまとめで「縄文語」とできるほど単純な状況ではなかった)と考えられ、それがこの地名分布だとかに痕跡を残してるだろう、と推測できるわけだ。アイヌ語と疑われる地名は、交流範囲なら日本語圏との相互的影響*11もあっていいのに、そんなに広範囲な拡がりがない。ということは、どうやらアイヌ語圏は限定されてるわけだ。
  • D1b1が関西で少なかった最大の原因は、まさに奈良=ヤマト政権の本拠地でD1b1が全く出なかったことにある。
    ただし奈良はサンプル不足の問題を抱えてるため、調査を進めると大きく変わってしまう可能性があり、少なくともここまで極端ではない数字になるかもしれない。(意識的に対象を考えて探せば見つかりそうなもの)
    このD1b1だけは、歴史的政治的事情がありそうなきな臭い分布になっている。
  • ただしこのD1b1、四国で多かったり、九州で南側にいる雰囲気だったり、東海道から千葉にもまあまあいたり、東北でとりあえず宮城には多く、どうも太平洋側全般でやや多い傾向がありそうだ。
    逆に日本海側は(データ不足で不明要素は多いが)、富山で少なかったり、どうも山陰地方でも多くはない雰囲気であったり、だいたい少ない傾向に見える。東北の日本海側ならば多いかも知れないが。調べて決着を付けて欲しいところ。
  • D1b(2)は、意外にも奈良でアイヌ以上の高い内部比率(D1b1がいないためでもあるが、D1b1aと比べてもたいした差がない)だったり、全体的な傾向がわかりにくい。
  • 奈良と同様にD1b(2)>D1b1地域だと思われるのが、山梨・長野および富山などの甲信越地域周辺。このうち甲信地域は、(人面装飾付き)有孔鍔付土器(次の画像)釣手土器(次の次の画像)などのような個性の強い土器文化を持っていて、これらの土器文化が北陸にも関東にも、一部は東北にも拡がったという。(また別の個性を持つ火焔土器はこの東の新潟などから出てくるため、別の文化圏だったか)

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    (人体文様付有孔鍔付土器、鋳物師屋遺跡画像はこっちから)こんな時代を超越したデザインの物を作ってたんです。しかし目の下にちゃんと入れ墨があることに注意。特徴的な口縁の穴から、酒を作った説と太鼓説があるが、いずれにせよ祭祀と関係あるとされる。(この絵は踊っているという説もある)

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    (釣手土器、長野県原村)油を入れ釣って火を灯した、という。女神(火を宿す母体)と思われるデザインからしてこれも祭祀と関係するか。そういやヤマトタケル伝承には甲斐の酒折宮の御火焼之老人(みひたきのおきな)が登場し「かがなべて、夜には九夜、日には十日を」(「かが」は「日々」とかがり火を掛けているという)と歌ってますね。(しかもこれは単に歌で収まらず、祭祀を行ってヤマトタケルの問いに対し神託を授けた、とも考えられるのだ。甲斐には火祭りの伝承もある。だが火を焚く祭祀はそもそも全国各地にあって京都とか奈良とか関西圏(御火焚/御火焼(おひたき)。同じ文字遣いか)にもたくさんある)

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    これはまた、似た要素はあるが別種の人面装飾付き深鉢形土器の分布。論文から。

  • 奈良・甲信越という地域から(上の森林帯との関係図も御火焚もヒント)、熊野・諏訪を思い浮かべ、修験道など山岳信仰のことを考えた。非常に由来の古いD1b(2)のシャーマン筋が、新しい宗教と結びつき、それが奈良のような宗教的中心地でD1b(2)の多い理由を生んでいるのかもしれない。)
    呪術を信じる人々からすれば、もちろんシャーマンは畏怖すべき存在でしょう。
    御火焼之老人も金枝篇の言う「呪術王」だろう。
    このヤマトタケルとも関係して、西へ移された佐伯部(騒がしく念ずる呪術者と考えられる)のような話もある。で、厳島神社だとか空海が西国でこの佐伯部を統括したという佐伯直だったりするわけだ。
    この推理により、(山岳信仰の地域だけでなく)京都など寺社の多い地域はD1b(2)が集まってると予測する。*12
  • 12/20追記。宮城もD1b(2)が多いが、ここには蔵王権現がある。この蔵王権現こそが吉野山金峯山寺の本尊だ。
  • C1a1の前に、海人について語るために47z入りの表も載せよう。(2018/3/10修正*13
    こちらはD1b(2),D1b1を見てないため、Satoのデータ(表で「S」追加)も利用できる。*14
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  • C1a1は海人らしき傾向を示している。ただし内陸だが奈良も(サンプル数は少ないが長野も)そんなに少なくない。そして関東(神奈川除く)から宮城(岩手は不明)と静岡で少ない。
    • ここは突っ走らせていただく。奈良に関しては、瀬戸内海海人の雄で吉備との結びつきも深い椎根津彦の、子孫「倭国造」がいる。
      ただし瀬戸内海周辺でもC1a1は最多グループではないわけで、椎根津彦の海人集団も単一系統でなく複合集団か。そして「椎根津彦集団にC1a1がそこそこ多い」可能性は言えるが、「率いる椎根津彦自身がC1a1」と言えるわけではない。ただ、珍しいはずのC1a1系統が瀬戸内海でこのように増えるためには、それなりの地位が必要だろう。
      ここで、岡山(吉備)のC1a1の多さは注目に値する。吉備椎根津彦吉備津彦伝承だけでなく、巨大な造山古墳などがあり、吉備の土器が箸墓古墳などから出土している。(箸墓古墳の主で、卑弥呼説もある倭迹迹日百襲姫吉備津彦と兄弟姉妹関係にある)
      ちなみに沖縄には、村の創始者を指す「根人(ニッチュ、ニーッチュ)」というおなり神信仰――兄が根人、妹が根神(ニーガン)。卑弥呼も根神にあたるという説がある――と関係する表現があり(参考pdf。なお、日本古代の称号にも「」がある)、倭国造の祖とされる椎根津彦ネツヒコ)との関係性も面白い。
      それに倭国造の記述は、もともとはこの椎根津彦の系統こそが、他ならぬ「倭(ヤマト)」を自称していた、とも受け取れる。この集団は単一系統の小集団でなく、複数系統の集まった複合集団らしいことも都合がいい。しかも海人だから、海外に出て行ってそのまま「倭人」「倭国」と呼ばれる可能性もある。
      また実は神武東征集団なども、「先導」の椎根津彦の集団(つまり倭)に加わったのだと読めたりするところでもある。*15
    • 長野はサンプルが少なすぎてどうこう言えず、それでも47zの多さのほうならば意味を持ち、海人族間の関係性も問題となる。ちなみに長野も山の中ながら海人の安曇一族がいます。(諏訪関係も問題だが)
    • 関東以東は、江戸時代でも東京湾を境に海人の縄張りが違っていたという(江戸後期三大航海圏)。

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  • ここで、太平洋側には定期的に巨大津波があることもやはり重大だろう。瀬戸内海や日本海側のほうが巨大津波の影響は少なく、古くからの海人がそこで多いことには感じる物がある。*16
  • 韓国の済州島でもC1a1は出てたが、ここも海女(あま)の島だ。これは(時代の問題はどうしても残るが)C1a1が海外に出ていた証拠となる。
  • Hammerの九州は、どこをどう集めているかわからないが、D1b1以降(D1b1・D1b1a)だけでD1b(2)もC1a1もいない、やけに偏った数字が出てる。どこを調べた?
  • 南九州では鬼界カルデラ大噴火があって、その被災地で古い住民が滅ぼされ、それ以降に入ってきた人々だけになることに不思議はない。
    なお、鬼界カルデラのアカホヤ噴火は放射性炭素年代だと6300年前(年代を修正したと断りがない場合、今でも他の放射性炭素年代との比較にはこちらの数字を使うべし)だが、水月湖年縞により修正され7300年前とされる。測定値を検証し文化的影響も書いてる新しめの論文から次の被害地図を引用しよう。

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  • 九州周辺の交流の問題に入る。これはまず古い黒曜石の問題から始まる。

    左はついでに持ってきた北海道の状況で、右が九州、腰岳の黒曜石の移動。(Kuzmin 2012)
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    朝鮮半島の側の移動はずっと古い25500年ほど前のものだけだが、琉球の側は8000年から6000年前に始まり4000年前に最盛期を迎えたとされている。
    ということは、沖縄との交流は縄文早期の鬼界アカホヤ噴火以前(※縄文早期と縄文前期の境目の定義こそが鬼界アカホヤ噴火)からあった可能性があり、縄文海人の相互の移住もそのぐらいまで遡るかもしれない。

  • この沖縄との関係はまず貝文土器文化が重要なポイント。これが噴火で滅ぶわけだが。(不運にも文化の範囲が被害のひどい地域と重なってたりする)
  • 次は結合釣針と石銛(石の穂先・鋸歯を付けたモリ)。この話は『縄文論争』にもあったが、この問題を検証する別のもっと新しい論文も読んだ。
    図を引用するが、この西北九州型結合釣針は縄文前期・縄文後期・弥生時代*17に出てくる。石銛は年代の特定が難しいとあり、(日本は)縄文中期末ぐらいから後期中頃まで確実に存在と結論づけられてる。

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    この論文(「鋸歯尖頭器・石鋸の系譜と展開」久我谷2016)の抄録にはこうある。

    本稿は、鋸歯尖頭器・石鋸の系譜と展開の分析をもとに、縄文時代の九州西北部沿岸地域から新石器時代朝鮮半島にかけて成立していたとされる「漁撈文化」「漁撈文化圏」の再検討を試みたものである。
    (中略)
    従来の研究ではこれら(鋸歯尖頭器・石鋸)の系譜を朝鮮半島や大陸方面に求める見解があったが、分析の結果から唐津湾沿岸地域において凹基形鋸歯鏃を構造的な特徴を維持しつつ大型化させたことにより、出現したものである可能性を指摘した。
    (中略)
    朝鮮半島の遺跡で石鋸が確認されるのも、九州から限定的・断続的に持ち込まれたものが同様の理由によって当地に残されたことによると捉えた。
    「漁撈文化(圏)」を構成したとされる他の遺物についても、近年の研究では朝鮮半島との関係性の強さを疑問視する見方が相次いでいるうえ、相互の時間的・地理的な連動性も明確ではないといえる。
    以上のことから、漁撈具から推察される当時の日韓交流には文化的な共通性・一体性を認めるほどの密な関係は見出せず、総体的な枠組としての「漁撈文化(圏)」の存在自体も認め難いと結論される。

    つまり ――

    • この石銛は日本側の唐津湾が起源。(ただし、この石銛を作った者たちの正体に関する情報は書かれてない。もちろん、この石銛以上に古く縄文時代から唐津湾にいた、ということにはなる。――自分としては、まさにこの者たちこそが47zではないかと推測する。日本側に多く、韓国にもそこそこいる系統だから)
    • 交流はあったが一体化した文化圏ではなく、道具の連続性も確かでない。論文には、道具の類似は表面的に留まる、などもある。

    とされるわけだ。
    論文にないことを書くが、石銛を使う捕鯨文化もこの話と大いに関係するはず。韓国蔚山・盤亀台のクジラの岩絵(図1でCの点線にギリギリでひっかかるぐらいの場所)、壱岐原の辻遺跡甕棺にあるクジラの絵、同じく壱岐の鯨伏(イサフシ)郷のクジラの話(風土記逸文国会図書館デジタルライブラリー)など。

  • この漁具と関係してもう一つ。噴火の被害のひどかった南九州はこの玄界灘周辺系統の釣り針や石銛の分布から外れている。つまりこの道具を使う者たち(47z系海人?)は噴火後の被災地にほぼ移住しておらず、(証拠としては漁民限定だが)別文化圏らしい。
    海幸山幸伝承がまさに釣り針と関係してるわけだから、別文化圏かもしれないというのは重要。
    ただこれは、海人ではない山幸のほうが問題となる伝承だ。山幸が海に出るというお話でもあり、これは鬼界アカホヤ噴火の論文の図にもある、「生活圏の移動・拡大」に該当していたりする。

  • 実は鹿児島にOが多いという論文があるが、考古学的には玄界灘の系統とは違う予測になるわけだ。これはオーストロネシア系統かも知れないし、中国本土から直接渡ってきた多少新しめの系統もあり得る。
    なお、論文の中身はちゃんと読んでない。調べたマーカーがわずか4つだけでOとかDのレベルの大雑把な分析しかなく、「鹿児島にOが多い」以上の中身を期待できなかったからだが。
  • 貝交易(貝の考古学(忍澤さんの記事))は関係する地域が広く、遠く北海道にまで及んでいる。ただし琉球との交易は新しく、弥生時代からとされる。
  • そういえば47zが朝鮮半島ルートだと判断した理由をちゃんと書いてなかったが、これもオーストロネシア論文のADMIXTUREが理由。オーストロネシア語族に対応すると考えられるグレーは、日本にはしっかり混ざってるが韓国(や上海)にほとんど出ていない。だから、韓国にもたくさんいるO1b2(47z含む)はグレー集団に該当しないと考え、移動経路は南の海上の道ではないと判断した。(詳しい説明はADMIXTUREシリーズで。少しフライングして説明すると、混ざり具合から混ざった古さの見当が付く。よく混ざっているなら古い。あまり混ざっていないなら新しい、か交流が分断されていて混ざらないか)
  • 関門海峡の西で、少なくとも三系統の海人、瀬戸内海海人(C1a1は多いが最多ではない)・山陰海人(D1b1aが多いらしい)・玄界灘海人(47zが多いようだ)が交流する、って事になるわけだ。(+オーストロネシア系海人やもっと新しい渡来系海人など)

 

*1:β版と称していても、部分的には正式に確定できたデータとなっている。

*2:ただし、Satoのデータなどと合算すると異なった比率になる。

*3:今回に限らず、どんなデータでも不足欠落は付き物。完璧なデータが手に入る事はそんなにないわけで、欠けている部分は常に意識する必要がある。

*4:Satoには札幌市・徳島市・福岡市・長崎市のデータもあった。だいたい他のデータと似た傾向を示すが、徳島市(県と市の違いに注意。「徳島県」は海部郡があるから影響しそうだ)はC1a1がさほど多くなく、D1b1a全体比率17.6内部49.6、C1a1全体比率5.5内部15.6となっている。北海道はβ版がやけにO1b2(x47z)の多くD1bの少ないデータだったが、Oを排除したバランスだとSato札幌もそれほど変わりがなく、D1b1a全体比率18.3内部48.2、C1a1全体比率4.1内部10.9だ。

*5:白地図データはhttp://www.craftmap.box-i.net/より。

*6:The history of human populations in the Japanese Archipelago inferred from genome-wide SNP data with a special reference to the Ainu and the Ryukyu... - PubMed - NCBIによる。なおサハリンアイヌの人数は、この論文で男女合計36人解析できた中で5人(約14%)と見られ、その割合から男のみのデータにも2人前後サハリンアイヌが入っている換算になるが、性別などの明言は論文にない。

*7:確実に日高アイヌであろう似た傾向の多数派を抜いていくと、サハリンアイヌの可能性がある何人かの中にC2二人が残るため、まさにこのC2二人がサハリンアイヌという可能性もあったり、悩ましい。

*8:なお、島根はたったの2サンプル調べられていて、片方はD1b1a、もう片方は47zでした。ちなみに兵庫はこの47zが、全体比率でD1b1aと同じぐらい多い。

*9:このへんは、実際にはどういう事実を記録したのかという推理が入ってくるところ。たとえば、支配と関係する祭祀を執り行っている者こそが本当に支配する者ではないですか? 祭祀の術としての意味を考えたら、本物の支配者こそが行うべき、他人にやらせると意味の違ってしまう祭祀がある。

*10:土井ヶ浜遺跡にたくさんの「石鏃」が打ち込まれていた人骨があるが、新しい渡来人は石の武器を使わないはず。するとこの殺害の最有力容疑者は、山口で数の多いD1b1aということになる。

*11:古い言葉はどちらが根本的な由来か決着が付けられない場合もある。また、日本語とアイヌ語の分岐前言語が存在した可能性もある。ただしアイヌ語が北海道ルート集団の別言語であった可能性も考えているが。

*12:ただD1b(2)はサンプル不足の地域でばかり出てきていたり、山にしろ宗教関係者にしろ、サンプリング調査が難しそうだったりするが。

*13:β版のD1b1aとC1a1は確定したが、47zはできなかった。よって、数字がイタリックの場所はβ版による予測値。

*14:追記。ただ、傾向の違いはあり、合算により長崎などはかなり変わった。(Satoの長崎は大学生のデータだったため、学生の傾向(住民との違い)も問題になるか)

*15:「神武東征」は、考古学的に瀬戸内海を西から攻めたような痕跡が出てこないという問題があり、そもそも記述の上でも瀬戸内海では戦っていない。ここは、椎根津彦が先に瀬戸内海航路を支配していた(西から攻めたわけじゃない)と考えると筋が通るのだ。

*16:ただし海部郡など海人と深く関係する場所は太平洋側にもある。もちろん津波はあっても海の恵みの多い場所(御食国(みけつくに)など)はあり、そこにも何らかの系統の海人はいるわけだ。

*17:縄文中期と晩期で発見されておらず、技術として連続してないようだ。ちなみに縄文前期は図にある菜畑遺跡のみで出土し、後の時代の物が混入してる可能性もあるとされている。