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知識探偵クエビコ

人類史・古代史・神話の謎を探ったり、迷宮に迷い込んだり……

朝夕の太陽祭祀・天変地異(淡路島舟木遺跡)

古代史 日本人 伝承 地理 地震 術式 太陽祭祀

以前気になったニュース、舟木遺跡の話から。

f:id:digx:20170207024526j:plainwikipedia淡路島

淡路島北部にある、弥生時代後期~末期(1世紀~3世紀初頭)の舟木遺跡。googleマップ

淡路はアワ路コトバンクwikipediaでもあり、国産み神話で重要な位置付けにある場所でもある。最近は松帆銅鐸南あわじ公式まとめ五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡も有名。

それに、「舟木」という地名もいい。(日本全国のどこにあるか、検索したらもうまとめてる方がいた。http://kamnavi.jp/log/funaki.htm

大規模鉄器生産工房跡の発見。

この記事にも書いてあるが、青銅鏡の破片も出ている。

この鏡、「中国南部産の材料で製作した後漢鏡の一部と判明した。」「2世紀前半に製作された中国鏡と想定されるが、一緒に出土した土器の年代をみると、生産されてから短い期間で淡路島に入ってきたと考えられる。」とある。

そして、ニュースには書かれないが、この遺跡は太陽信仰の磐座・舟木石神座(舟木石上神社*1)に隣接していることも面白い。google検索

この太陽信仰の祭祀は、朝日(日の出)に向かって男の行うものと、夕日(日没)に向かって女の行うものがあったとされる。そして舟木石神座の場合、朝日の祭祀は男が行うものであって、故に女人禁制だと言う。

実は、まさに淡路島を舞台とした、朝日と夕日と高木と船の伝承がある。

『古事記』仁徳段弘前学院大学文学部紀要:枯野伝承の生成(上)テキスト引用先

此の御世に菟寸河(とのきがわ)の西に一つの高き樹有り。 其の樹の影、旦日(あさひ)に當(あた)れば淡道(あわぢ)の嶋に逮(いた)り、夕日に當れば高安山(たかやすやま)を越えき。 故、是の樹を切りて、以ちて作れる船は、甚(いと)捷(はや)く行く船なり。 時に其の船を號(なづ)けて枯野(からの)と謂う。 故、是の船を以ちて旦(あした)夕(ゆふべ)に淡道の嶋の寒泉(しみず)を酌(く)みて、大御水(おおみもひ)を獻(たてまつ)りき。

――この後に古くなった枯野を焼いて塩を作る話が続き、歌の中に淡路の「由良の門」も登場する。なお、『日本書紀』では仁徳一代前の応神紀で枯野が登場。ただし高木や朝夕の話が無く淡路の名も出てこず、伊豆国に枯野を作らせたという情報がある。(上記枯野伝承論文には、「枯野」の名の由来を伊豆の狩野に求める説が出てる)

『播磨国風土記』逸文*2明治大学学術成果リポジトリ:『播磨国風土記』逸文の巨木伝承が語ることにも、内容は違うが、淡路は同じように登場する伝承がある。そこで高木の楠の場所は明石駒手御井とされ、「朝日蔭淡路嶋 夕日蔭大倭嶋根(やまとしまね)」と、方角は違っていてもやはり朝日の影は淡路島とされている。また、作られる船の名は「速鳥」となり、淡路ではなく明石の水を朝夕に汲んで天皇の元へ運び、ある日失敗している。

淡路や船は出ないが、『古事記』雄略段三重采女(うねめ)天語歌(あまがたりうた)にも、高木の槻(つき。ケヤキ)と朝夕と覆う枝と、宮・新嘗(にいなめ)・いろいろな樹木が登場している。jairo:『古事記』における「日の御子」明治:麻布(朝布)と東国の調(覚書)・三重采女天語歌は検索すると他にもいろいろ出てくる・歌テキストの引用先は同じ*3。ただし原文は万葉仮名の一字一音表記であり、漢字は推測されたものだ)

纏向(まきむく)の 日代(ひしろ)の宮*4は 朝日の 日照(ひで)る宮 夕日の 日光(ひがけ)る宮
竹の根の 根足(ねだ)る宮 木(こ)の根の 根延(ねば)ふ宮 八百土(やほに)よし い杵築(きづ)きの宮
真木(まき*5)栄(さ)く 檜(ひ)の御門(みかど) 新嘗屋(にひなへや)に 生ひ立(だ)てる
百足(ももだ)る 槻が枝(え)は 上(ほ)つ枝は 天(あめ)を覆へり 中つ枝は 東(あづま)を覆へり 下(し)づ枝は 鄙(ひな)を覆へり*6
上つ枝の 枝の末葉(うらば)は 中つ枝に 落ち触(ふ)らばへ
中つ枝の 枝の末葉は 下(しも)つ枝に 落ち触らばへ
下づ枝の 枝の末葉は 在り衣の 三重の子が 捧がせる 瑞玉盞(みづたまうき)に 浮きし脂 落ちなづさひ
水(みな) こおろこおろに 是(こ)しも あやに畏(かしこ)し

高光る 日の御子
事の 語り言*7も 是(こ)をば

――続けてさらに二つの天語歌があり、雄略大后の若日下部王(仁徳娘)と、さらに雄略自身も歌ったとされている。そしてこの天語歌を歌うとされるのが天語連(あまがたりのむらじ)であり、『新撰姓氏録』には前回の記事榖(カヂ)と木綿(ゆう)の神である天日鷲神の子孫だと書かれている。つまり天日鷲系忌部系統の一族だ。(この天語歌を歌う雄略天皇は、久米歌を歌う神武天皇と同様に興味深い)

なお、高木と朝夕の伝承は『日本書紀』だと景行紀18年秋7月にあり、舞台は九州――高木:筑紫後国御木(三毛郡)の歴木クヌギ地名にもある、朝:杵島山肥前)、夕:阿蘇山――になっている。ただし、この木で作られるのは船でなく橋だ。

またこの話は『筑後国風土記』逸文の三毛郡条にもあり、しかし朝夕の場所が――朝:肥前藤津郡多良の峰。夕:肥後國山鹿郡荒爪の山――と違っている。

場所は離れるが、天橋立の伝承(これも元が風土記逸文にある)も高木が橋になる伝承の類話だろう。天橋立の浜をクシ(不可思議・奇異・霊妙な現象)と呼び、朝夕じゃないが東に與謝海(よさのうみ)で西に阿蘇海という東西対称形式だ。

――根元にあるのは海部氏籠(コノ)神社。海岸を北に行くと地名日置(日置部日置氏)があり、その先に舟屋で有名な伊根がある。そしてこの丹後半島東部一帯が、「與謝郡日置里に筒川の村あり。ここの民日下部首(おびと)等の先祖は、名を筒川の嶼子(しまこ)……」と始まる日下部浦島伝承丹後国風土記逸文で「天橋立」の直後にあるのが「浦島子」)の舞台となっている。

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雪舟「天橋立図」
室町時代) 天橋立の右上に籠神社、さらに上にあるのが世野山成相寺*8天橋立の奥(上方)側が阿蘇海で手前が與謝海。

また『古事記』天孫降臨原文(右ページ後半)*9に、高木でなく宮を意味する「宮柱・氷木(ひぎ。神社や宮の屋根の千木(ちぎ)の一種)」として朝夕の登場する局面がある。引用元はここだが今回は手を入れた)

「此地(ここ)は韓國(からくに*10)に向かい、笠紗(かささ*11)の御前(みさき)に眞來通(まきどお*12)りて、朝日の直(ただ)刺す國、夕日の日照る國なり。故、此地(ここ)は甚(いと)吉(よ)き地」

と詔りて、底津石根(そこついわね)に宮柱太知り、高天原に氷木(ひぎ)高知りて坐(いま)しき。

――この一節、「韓國 眞來通笠紗之御前」と、ちょうど「マキ(甲類)ムク」になる部分を含んでいる。しかも太陽崇拝で宮も「知り」も登場するため、この文章で表現される宮がもともとの意味の「マキムクの日代の宮」ではないのだろうか。

――朝夕の祭祀の伝承は場所を違えて複数存在するわけだから、太陽崇拝の宮――おそらく、呪術的に影の及ぶ範囲が支配地を意味する。このとき一連の伝承は何らかの権力が存在した場所も指し示す――も特定の一箇所に限らない。前述の天語歌の解釈でも、「纏向の日代の宮」は景行天皇の宮を指すのでなく、この太陽崇拝の形を表現するのだろう。「杵築の宮」も出雲大社(旧名が杵築大社)を指すのでなく一つの形であるわけだ。*13

――ところで、「底津石根に宮柱太知り、高天原に氷木高知りて」で表現される宮は、大国主の国譲り原文(右最初))にもその条件*14として登場し、これがどうやら出雲大社を指すとされる。しかしそれ以前にも、スサノオの発する大国主への言葉(スセリヒメと結婚するための試練の後)にも同じ文章(原文(真ん中))の宮がある。すると、大国主の国作りの頃から同じ建築流儀の宮があった(しかも、どうやらスサノオもこの流儀を知っている)ということになる。影の呪術自体は描かれていないが、気になるところだ。

これ以外にも、朝夕のないシンプルな高木伝承として、豊後国風土記の玖珠(クス)郡・直入郡地名由来などがある。ただ単純な高木伝承は数多く、比較できる要素がないと太陽崇拝との関係性は判断しにくい。

――玖珠町にはビュート(地理院解説)の特徴的な形状の伐株山(キリカブ山)があり、これが文字通り巨大な切り株に見立てられているだろう。

f:id:digx:20170305161840j:plain伐株山

なお、日向國風土記逸文には「扶桑」(ただし「ひいづるかた」と訓じられている)も登場し、それが「日向(ひむか)」の地名由来とされている。

「纏向日代宮御宇大足彦天皇*15之世 幸兒湯之郡*16 遊於丹裳之小野 謂左右曰 此國地形 直向扶桑 宜號日向也」

――『日本書紀』景行紀十七年春三月にもほぼ同じ話はあるが、ここで「扶桑」が「日出方」表記となっている。

 

ここで、淡路島の活断層の、阪神淡路大震災震源断層である野島断層などで構成される六甲・淡路島断層帯についても書いておきたい。

この野島断層の断層面そのものが見られる北淡震災記念公園も、舟木遺跡のすぐ北西にある。

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野島断層の保存された露出

そして淡路島の活断層は野島断層だけではない。分岐した蟇浦断層(ひきのうら断層)は、舟木遺跡・舟木石神座のすぐ近くを通っているのだ。

論文 淡路島北部における活断層の活動度の再評価

国土地理院地図でもこの場所の都市圏活断層図が見られる)

地図上でも、舟木石神座の北に「野島蟇浦」という地名が確認できるだろう。

――ちなみにこの「蟇浦」も、本来は「日置浦」ではないかと考えられる。(なお、地理院地図では舟木の南、蟇浦断層の延長上に(淡路市小田)太田という小字地名も見える。蟇浦に小字「大石」があるのも面白い)

古代人から見て、地震で大地が激しく揺れ動き断層がその姿を顕すというのは、ただ単に巨石が転がっているという以上に、極めて印象的な出来事だろう。

――ただし舟木石神座の巨石がどこから来たか考えると、このあたりは河による侵食がある場所でも海岸でもないから、地盤隆起などの結果として元の岩盤は露出しているだろう。また、巨石の存在が直接地震や断層に関係している可能性もある。たとえば、熊本地震でも複数の巨石が出現し、興味深い扱いをされている。

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(参考)東日本大震災で落下してきた群馬県棚下不動の滝の巨石

なお地震本部サイトに、以前の活動についてはこうある。「淡路島西岸区間について地形・地質学的に認められる兵庫県南部地震に先行した1つ前の活動は、約2千年前以後、4世紀以前と推定され、2つ前の活動は約5千1百年前以後、3千7百年前以前と推定される」

この「約2千年前以後、4世紀以前」というのは、古代史的にも、舟木遺跡や五斗長垣内遺跡(ここも断層に近い)との関係を考えても、非常に興味深いタイミングとなる。

またこの約2000年前というタイミングは、南海トラフ大地震・大津波の中でも最大級のものが来たとされる年代でもある。(ということは、この時期に海人勢(特に、津波の経験がなく太平洋沿岸の危険地帯に住んでいた渡来人)は、大被害を受けた可能性が高く、この大津波は日本の古代に大きな影響を与えているだろう)

さらにこの前後の時期は、日本全国で誘発地震誘発された火山噴火が起こっていそうだとも予測できる。

――この約2000年前の特別に大きな大地震・大津波は、JAMSTEC津波堆積物からわかる巨大南海地震の歴史に整理された説明がある。もちろん地震本部にも南海トラフ大地震の詳しい説明がある。

――ちなみに「地震」の古語は「なゐふる」(日本地震学会広報誌の名前でもある)です。『方丈記』大地震(おほなゐふる。この『方丈記』にもほんの少しだが転がり出る巨石の話がある)(青空文庫にある『方丈記』全文リンク)。

 

次は、瀬戸内海の西、別府温泉など九州の話をする。今度は朝夕の祭祀・地震津波に加えて、火山と温泉だ。そして隼人も出てくる。

……と思ったがその前に、チャム族に関する論文などを読んだから、なるべく簡単にまとめておこう。

*1:なお、奈良の石上神宮コトバンク)は物部氏氏神を祀る。舟木石上神社で祭祀を行っていたのは太田氏と日置氏だそうだが。

*2:風土記逸文とは、失われた各国の風土記の一部が、他の書物の引用で残されているものを指す。なお、播磨国風土記はほぼ全体が残されているが、明石郡などあるはずの一部地域が無くなっていて、今回の逸文はその引用に当たっている。

*3:「夕日」でページ内検索すれば両方見つかる。またこの『古事記』下巻で、冒頭から登場する日下部(くさかべ)の「日下」も検索してみよう。

*4:このフレーズは景行天皇の宮を指す、とされる。しかしこれは雄略天皇の話なのに、何故いきなり景行天皇の宮なのか、という問題がある。

*5:優れた木材種の総称(コトバンク)。ただし「マキ」には同族集団の意味もある。この意味で歌を読むと……。(ちなみに崇神天皇が御真木入日子。なお、上代特殊仮名遣で木(歌の原文「紀」)はキ乙類で、纏向のキ(原文「岐」)はキ甲類とされ、この両者は別の発音)

*6:この歌は「(上つ枝)アメ-(中つ枝)アヅマ-(下づ枝)ヒナ」の対応関係となっていて「西」がなく、続いて「下づ枝の 枝の末葉は 在り衣の 三重の子が 捧がせる 瑞玉盞(みづたまうき)に 浮きし脂 落ちなづさひ」と、このヒナが歌い手と結びつく。そのためこの歌のヒナが何を指すのかが問題となる。(まずは一般的には「都から離れた地」の意味だが)

*7:「琴の語り言」説あり。琴を弾いて歌っているんだと。コトバンク天語歌の説明にもあったように、八千矛神大国主)と沼河姫の間でかわされる神語(かむがたり)にも同じ「コトの語り言もこをば」がある。これは「古い海部系の神話詞章」だそうな。

*8:現在の山号は成相山で、山崩れ(この話が『耳嚢』「丹後國成相山裂の事」)で山頂(鼓ヶ岳の世屋側か)から引っ越したという。実は天橋立の生成にも土砂崩れが関わっていて、一気に生成されたのではという説がある。ここにも活断層山田断層帯が通ってます。

*9:ニニギが発した言葉とされる。実際に文を見るとニニギの名は近くにないが。

*10:伝承成立時に何を指していたかは検証する必要あり。高木と朝夕の伝承の構造を踏まえ、唐(から)も考え、さらに天竺だとか南蛮の大雑把な用法を考えると、これも西方の国(あるいは日没)を大雑把に指すのではないか?

*11:対応を考えると、これも東方(あるいは日の出)を示す言葉か。――九州の笠紗古事記を由来として名付けられている。我が故郷こそがその場所、と名乗りたくなる地名は難しい。

*12:このキは甲類。

*13:もちろん、建築技術は時代によって変わる。また解釈なども人によって異なる。作られる物も結果的に異なるだろう。

*14:これも実は、自らの支配呪術のための宮を作らせているわけだ。外部の力を上手く利用して、身近な支配のために使うというのは良くある話。

*15:景行天皇を指す。マキムクのヒシロのミヤにアメノシタシロシメシシ・オオタラシヒコ天皇

*16:児湯郡は今もある。