『核DNA解析でたどる日本人の源流』斎藤成也
遅ればせながら。
出てることに気づいた瞬間に売り切れてた。つまり出版社の予想より売れたわけだ。
目次は以下の通り。
1章 ヒトの起源―猿人、原人、旧人、新人…人類はいかに進化してきたのか
2章 出アフリカ―日本人の祖先は、アフリカ大陸からどう移動していったのか
3章 最初のヤポネシア人―日本列島に住むわれわれの源流を探るアプローチ法とは
4章 ヤポネシア人の二重構造―縄文人と弥生人は、いつ、どのように分布したのか
5章 ヤマト人のうちなる二重構造―従来の縄文人・弥生人とは異なる「第三の集団」の謎
6章 多様な手法による源流さがし―Y染色体、ミトコンドリア、血液型、言語、地名から探る
紹介するだけなら簡単。
しかし、自分のスタンスでは具体的な中身に踏み込む必要もあり、気軽に書けない。(もう速報の意味はないし)
特に今回は、実際のデータを見たり、正式に論文になった時点でまとめ直すべき部分もあるため、そこはそのタイミングで記事にしよう。(新しいデータがあるか調べたら、まだ論文としては出て無いらしく、発見できなかったものがいくつかある)
まあ、今後もずっと新しい論文やデータは出てくるわけでもあり、題材としては適当に(時には違う論文やデータの登場を待ったりしつつ)追跡していくわけです。
なお、我がサイトとテーマが重なるわけだから、先に記事にしてる題材も多い。「ニュース:現生人類、「出アフリカ」は一度だけではなく、約12万年前から始まっている 」など。
ここで、検索したら出てきた、斎藤教授に直接話を聞いている(よって、この話部分がより最新の斎藤教授の考え)、本の紹介記事もまとめておく。
読売(以下、リンクが死ぬこともあるため、URL違いの同じ記事を二つ貼る)
「縄文人」は独自進化したアジアの特異集団だった! : 深読みチャンネル : 読売新聞(YOMIURI ONLINE) 1/4
「縄文人」は独自進化したアジアの特異集団だった! : 深読みチャンネル : 読売新聞(YOMIURI ONLINE) 1/4
最初のいきさつや既知の情報は飛ばして、3ページ目から抜粋しつつ考察する。
また、縄文人のDNAがアイヌ、沖縄の人たち、本土日本人(ヤマト人)の順に多く受け継がれ、アイヌと沖縄の人たちが遺伝的に近いことが確かめられた。ヤマト人が縄文人から受け継いだ遺伝情報は約12%だった。「その後、核DNAを解析した北海道・礼文島の船泊遺跡の縄文人骨(後期)でも同じような値が出ているので、東日本の縄文人に関してはそんなにずれることはないと思う」。アイヌと沖縄の人たちの遺伝情報の割合についてはヤマト人ほどくわしく調べていないとしたうえで、「アイヌは縄文人のDNAの50%以上を受け継いでいるのではないかと思う。沖縄の人たちは、それより低い20%前後ではないでしょうか」と推測する。
三貫地貝塚の縄文人を調べて、「ヤマト人が縄文人から受け継いだ遺伝情報は約12%」というのは、やはり注意が必要だった。
「北海道・礼文島の船泊遺跡の 縄文人骨(後期)でも(三貫地貝塚の縄文人と)同じような値」(本には他の東日本の縄文人も傾向は似ているとある)ということは、やっぱり、東日本の縄文人はアイヌに近いと言ってるわけだ。
ただ、「同じような値」「傾向」「似ている」「近い」という表現はあいまいだ。
ここは実際に、いろいろな東日本の縄文人を場所と年代ごとに調べて、どのぐらい同じでどのぐらい違うのか/どう変化しているかが問題になるところだろう。(それで詳細データが見たかった)
それに当然、「西日本の縄文人はどうなんだ?」って疑問が出るでしょう?
これもやっぱり、実際に調べて比較しないとわからないわけだ。
また、実はこの本以前の『日本列島人の歴史』斎藤成也で「三段階渡来モデル」を知った時点(記事にしてる。出雲はさらにその前回)でも認識してるべきだった内容(問題)もあった。
4ページ目。
日本列島への渡来の波、2回ではなく3回?
斎藤教授は、この「うちなる二重構造」をふまえた日本列島への「三段階渡来モデル」を提唱している。日本列島への渡来の波は、これまで考えられてきた2回ではなく3回あった、というシナリオだ。
第1段階(第1波)が後期旧石器時代から縄文時代の中期まで、第2段階(第2波)が縄文時代の後晩期、第3段階(第3波)は前半が弥生時代、後半が古墳時代以降というものだ。「第1波は縄文人の祖先か、縄文人。第2波の渡来民は『海の民』だった可能性があり、日本語の祖語をもたらした人たちではないか。第3波は弥生時代以降と考えているが、7世紀後半に白村江の戦いで百済が滅亡し、大勢の人たちが日本に移ってきた。そうした人たちが第3波かもしれない」と語る。
このモデルが新しいのは、「二重構造モデル」では弥生時代以降に一つと考えていた新しい渡来人の波を、第2波と第3波の二つに分けたことだという。この二つの渡来の波があったために「うちなる二重構造」が存在している、と斎藤教授は説く。
「三段階渡来」ということは、最初の段階のいわゆる「縄文人」でも、三段階目のいわゆる「弥生人」でもない、縄文時代の途中にやってきた二段階目がどういう人たちかが問題だったわけだ。
そしてこれは結局、後のアイヌ語圏(アイヌ語地名の残る東日本)と、後の日本語圏(西日本)の問題とも関わってくる。アイヌ語と日本語の境目が「いつ・どのように」成立したか、そして年代によってどう変化しているかが問題になる。
そしてここに、重要なパズルのピースとして第二段階目の人々も関わってくる可能性がある、というわけだ。
縄文時代は、氷河期が終わって温暖化していくマクロな環境変化があるわけで、それによって自然植生も変わり、必然的に生活環境も変わって、人の境目が動くことも考えられる。狩猟採集民にとって自然植生の違いはライフスタイルの違いそのものなのだから。
またこのとき、標高によっても気温は変わるわけであり、関東や中部の高地も東北寄りの環境を持っていた(後の時代まで多少維持していた)だろう。山岳地帯と海岸部では状況が違っていたり、交流したり混ざったり事情が複雑だった可能性もあるわけだ。
そしてこの地域(中央高地・東山地方など)が、個性的な土器文化*1があったりY染色体ハプログループD1b2*2が多めだったり(これも以前の記事)、富士浅間信仰・諏訪信仰や白山・立山・御嶽信仰や飯縄権現など重要な山岳信仰の存在する地域でもある。「境目が面白い」んですよ。*3
ところで、今回と前回の三段階渡来モデルの内容を比較すると、年代や範囲などで部分的な修正もある。おそらくしばらくは、「三段階渡来モデル」は現在進行形で修正されていくだろう。だからまだ、細かい部分にこだわる必要はなさそうかな。
最新の知見で内容が修正されることは当然ある(特に年代は変わりやすく、必然的に一部の考古学的証拠との対応が変わる)。さらに、まだ決定的証拠のない場合も多く、同時に複数の可能性を考えている場合もあったりするわけだ。
ただし根本的なところで、渡来の段階分けが「どんな基準で何段階に区切られる*4のが妥当か」には、不明要素も疑問要素も多いところ。
そしてこのインタビューには、「第3波は弥生時代以降と考えているが、7世紀後半に白村江の戦いで百済が滅亡し、大勢の人たちが日本に移ってきた。そうした人たちが第3波かもしれない」という部分もあった。
これは実際は、他の移民を全部含めた話をしたつもりか。
ただここで、百済滅亡と直接の関係はないが、桓武天皇(737-806)のことも思い出した。このお方は、日本人の遺伝を語るなら覚えておかなければならない。
この桓武天皇は、母が百済系氏族出身(母・高野新笠の九代前が百済武寧王*5の子とされる純陀太子だという)で、なおかつ、あらゆる源氏・平氏の最も近い共通祖先(MRCA)に当たる人物であり、日本人に遺伝的にそれなりの影響を残しているはずなのだ。(一部の自称源平氏族が実際には無関係だったとしても)
なお、桓武天皇は、ゲノム全体を見れば百済の影響はあるが、父系Y染色体も母系ミトコンドリアも百済系統を受け継いでいない(染色体の乗り換えが起こっていないならば)、ということにもなっている。また、高野新笠の母は土師氏出身(後にこの土師系一派が大江(大枝)氏とされる)だったり、この一族は何世代も前に日本に土着しており、高野新笠も百済系の度合いはそれほど高くなさそうだ。
まだ話は終わりじゃないですよ。 最後に期待していた話がある。
古代人と現代人はDNAでつながっているため、現代人を調べることも重要になってくる。「いま『島プロジェクト』を考えています。島のほうが、より古いものが残っているのではないかと昔から言われている。五島列島や奄美大島、佐渡島、八丈島などに住む人たちを調べたい。東北では、宮城県の人たちを東北大学メディカル・メガバンクが調べているので、共同研究をする予定です。日本以外では、中国・上海の中国人研究者に依頼して、多様性のある中国の漢民族の中で、どこの人たちが日本列島人に近いのかを調べようとしています」と語る。
ぜひ調べてください!
名前のないところでは、瀬戸内海の島々(特に国産み神話の淡路島)や、黒曜石の伊豆諸島神津島とか、出雲の古い状況が出そうな隠岐島も面白そうだが、入っていてくれるだろうか。
そして中国とも協力するそうだ。(でも漢民族対象なのね)
わ、もうすぐ新年だ。
来年も良いお年を。
中国古代文明側の可能性追求――遼寧省錦州市のY染色体ハプログループC1a1の由来はどこにある?
つづきを予告していた記事です。
「Liaoningさんと東京の4人との分岐年代は5500年以上前を示唆するか*1」ということになると――その約5500年前あたりにC1a1が中国側から日本へ渡来した/中国側のどこかでC1a1が分岐した可能性はあり得るのか?
なお今回の記事は、自動的に、C1a1限定の話でなく――5500年前程度の時代に、中国側から日本へ何者かが渡来した可能性はあるか?――を追求するためのリストにもなっている。
また、話の展開で、イネなど栽培植物がどのように伝播しているのかもちらっと触れることになる。
そしてさらにこれは、自動的に中華文明の形成を探る話に繋がっていくことにもなる。
実はこの約5500年前あたりという年代が、ちょうど面白い時代に当たっているわけだ。
*1:原文では、「I suspect the findings suggest it has been about 5,500 years or more since you last shared a common grandfather with the 4 Japanese men. 」
アンダマン諸島のY染色体ハプログループD系統の解析
前回の最後に書いた事の答えは、タイトルの通り。
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2018/4/3追記。Y-Full見たら、日本のD-M64.1の前側にアンダマン諸島の方々が来てた。ということは、今後日本のD1b-M64.1は、少なくとも一つ伸びてD1b1かD1b2ぐらいになるでしょう。
Y-FullでDの分岐の根元に表れた人々の正体は、昔から知られていたがずっと未分類状態だった、アンダマン諸島のジャラワ族・オンゲ族だった。
このY-Fullのデータに、元の論文及び公開データ*1から、族名とミトコンドリアハプログループ*2を書き足そう。
- D-Y34637 formed 45200 ybp, TMRCA 4500 ybp
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- D-Y34960 formed 4500 ybp, TMRCA 425 ybp
ERR1813573 IND [IN-AN] ジャラワ族JAR-61 mt-M32a
ERR1813572 IND [IN-AN] ジャラワ族JAR-54 mt-M31a1b - D-Y34670 formed 4500 ybp, TMRCA 1050 ybp
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- D-Y34670*
ERR1813570 IND [IN-AN] ジャラワ族JAR-27 mt-M32a - D-Y35019 formed 1050 ybp, TMRCA 275 ybp
ERR1813579 IND [IN-AN] オンゲ族ONG-9 mt-M32a
ERR1813577 IND [IN-AN] オンゲ族ONG-4 mt-M31a1b
- D-Y34670*
- D-Y34960 formed 4500 ybp, TMRCA 425 ybp
データ http://www.ebi.ac.uk/ena/data/view/PRJEB11455 (European Nucleotide Archive)
見てわかるとおり、共通祖先年代に大きなボトルネックがあり、調べられた集団は滅びかけたことがあるようだ。
地理条件から推測すると、津波(及びその後に起こる様々な災難)の影響か。スマトラ沖大地震でも、インド洋東側の小規模な先住民集団は被害を心配されていた。(BBC Andaman aborigines' fate unclear)
ということは、まだブータンの問題のDは解析されずに残っているわけだ。
そしてこの論文にもこんな図がある。
デニソワ人・ネアンデルタール人と並ぶ位置にある”Unknown Southeast Asian”がポイントで、これがチベットビルマ語族・アンダマン諸島人(総称)・インド人・パプア人・アボリジニ*3に影響を及ぼしているという。
それにしてもこの”Unknown Southeast Asian”は、どうやら前回の、12万年前の早い時期に出アフリカした人々に当たりそうだ。(現生人類の出アフリカも図の少し新しい時代の位置にある)
なお、デニソワ人とアジアの先住民族全体との関係は、次の斎藤研究室の論文(2017)の図が詳しい。
Mly-NNはマレーのNon-Negrito(ネグリト以外)。Phil-NNはフィリピンのネグリト以外。
なお、図中のネグリト=Andamanese・マレーシア(Jehai,Kintak,Batek)・フィリピン(Aeta-Agta,Batak,Mamanwa)・Papuan-Melanesian。*4
最も影響が出てるのはパプア人で、その次にフィリピンのアエタ族が来る。アンダマン諸島人も、強くはないが影響はある側にいる。
しかし、氷河期に陸続きになったスンダランド系への影響は薄い。
つまり、陸続きにならなかった東南アジアの離島側集団にデニソワ人の影響が比較的強めに出ている。また、視点を変えると、時代が古めのネグリト側のほうが影響が強いようでもある。
そしてこれが、前回書かなかったが、デニソワ人(あるいはデニソワ人の影響が非常に強いデニソワ系集団*5)は南方の東南アジアにもいたのではないか、とされる理由なのだ。――なお、デニソワ人とパプア人の関係は以前から知られていて、以前の記事でも触れている。
ここで、西にいるアンダマン諸島人も影響が強めであるため、デニソワ系との接触は、東南アジアの本土側で起こった/スンダランド圏は後から来た者たちで影響が薄まり、ほぼ消えた、ということになるんだろう。