知識探偵クエビコ

人類史・古代史・神話の謎を探ったり、迷宮に迷い込んだり……

1万年前の英国人、褐色の肌に青い瞳 現代欧州の10人に1人とつながり

ちょっと前のニュースを、重点の異なる記事で。

最先端の科学分析によって、1万年前の英国人が褐色の肌と青い瞳の持ち主だったことが明らかになった。現代欧州人の10人に1人が、この時期の狩猟民とDNA的につながると言われている。
ロンドンの自然史博物館とユニバーシティー・コレッジ・ロンドン(UCL)の共同研究チームが7日、再現した頭部を発表した。
自然史博物館の研究チームが、1903年に英南西部チェダーで発見された英国最古の完全な形の人骨からDNAを抽出した。
(中略)
チェダー男の骨は115年前、英南西部サマーセット州チェダー渓谷にあるゴフ洞窟で発見された。その後の調査で、身長は約165センチと現代英国人にしては低く、おそらく20代で死亡したと分かった。
同博物館で人間の起源を調べている研究主任、クリス・ストリンガー教授は、「私は約40年もチェダー男の骨を調べてきた」と話す。
「だから、この人と対面するなど、数年前には考えらなかった。こういう外見だったかもしれないという顔と。こういう髪で、顔で、あの瞳の色と浅黒い肌の色のハッとするような組み合わせで。科学データからは、この人がこういう外見だったということになる」
(中略)
自然史博物館の研究チームは、耳の近くの錐体(すいたい)と呼ばれる頭蓋骨の一部からDNAを採取した。担当したイアン・バーンズ教授とセリーナ・ブレイス博士は当初、骨からDNAを採取できるかは分からなかったという。
しかし、チームは運がよかった。DNAが残っていただけでなく、欧州の中石器時代のゲノムとして、最高水準のカバー率(配列の正確さの尺度)が達成できた。
(中略)
チェダー男はゲノム解析によって、スペインやルクセンブルグハンガリーで発見された、いわゆる西部狩猟採集民など中石器時代の他の人類と近縁関係にあったことが分かった。

このスペインは、おなじみLa Brana Arintero(復元画像付き記事)(7000年前、Y染色体C1a2-V183,ミトコンドリアU5b2c1*1で、これも同じように浅黒い肌で青い瞳とされていた。ルクセンブルグLoschbour(8000年前、Y染色体I-L460,ミトコンドリアU5b1a)ハンガリーTiszaszőlős-DomaházaのKO1(7700年前、Y染色体I-L68,ミトコンドリアR3)を指しているようだ。

成人後のチェダー男はおそらく、牛乳を消化できなかったこともゲノム解析からうかがえる。牛乳消化は、青銅器時代以降に初めて広まった特質だ。
現代の欧州人は、チェダー男のような中石器時代の狩猟民の遺伝情報を平均10%受け継いでいる。
英国は過去約100万年もの間、人間の数が急増したかと思えば急減する状態を繰り返してきた。現生人類は早くて4万年前からブリテン島に住んでいたが、その1万年後の最終氷期の最盛期(LGM)のような極端に寒冷期には、よそへ移住するしかなかった。
ゴフ洞窟の様子から、狩猟採集民が約1万5000年前に島に戻ってきたことが分かっている。気候が一時的に回復した時に、あえて戻り、しばらく暮らしていたのだ。
しかし、その直後にまた気候が悪化し、住民は島を出るしかなくなった。チェダー男の骨に残された傷跡から、仲間の死体を食べていた可能性がうかがえる。儀式の一部だったのかもしれない。

牛乳を消化できなかったというのも面白いところ。現在のイギリスは、乳糖消化能力を持つ大人が最も多い地域なのだ。

 

ナショナルジオグラフィックは、「想像は出来てたはずでしょ?」という雰囲気。

「チェダーマン」と呼ばれている約1万年前の人骨がある。1903年に英国で発見されたその人骨を基に顔を再現したところ、明るい青色の目、わずかにカールした髪、そして黒い肌を持っていたことが明らかになった。
「一般の人々には驚きかもしれませんが、古代のDNAを扱う遺伝学者にはそうでもありません」と述べるのは、英ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の科学者マーク・トーマス氏だ。
 実は、スペイン、ハンガリールクセンブルクから中石器時代の黒い肌を持つ古代人が見つかっており、そのDNA配列はすでに解明されている。今回行われた新たなDNA分析により、チェダーマンは彼らと遺伝的に近いことが証明された。また、1万1000年ほど前の最後の氷河時代の末期にヨーロッパに移住したと考えられる狩猟採集民の一団に属していたこともわかった。
(中略)
 トーマス氏によると、「目の色を決めるのは、ある特定の遺伝子と、その遺伝子の中にある特定の変異体」だという。「肌の色は、たくさんの変異体によって決まります」
 この地域の人々は時間とともに肌の色が薄くなっていったが、その理由や時期についてはわかっていない。
「肌の色が薄ければ、浴びる紫外線が多くなり、生成されるビタミンDも多くなるからでしょう」とビラール氏は推測する。ビタミンDは健康な骨を作るのに欠かせないが、紫外線を浴びることでも生成される。しかし温帯地域では、人が日光を受ける頻度は少なくなるため、多くの紫外線を吸収できるように、肌の色が薄くなったというわけだ。
「私の見解では、肌の色についてはそれが最も説得力のある説です」とトーマス氏も同意する。「しかし、この説では目の色は説明できません。何か別のプロセスが起こっているのです。性選択に関わることかもしれませんし、まだ私たちが理解していないことかもしれません」
 2014年の研究で提唱された別の説もある。人間が耕作を始めるようになったことで食生活の多様性が減り、日光からより多くのビタミンDを吸収しなければならなくなったというものだ。なお、現在の食生活では日光を浴びなくてもビタミンDをまかなうことができると彼は付け加える。

これは、個人的にもよくわかる話だった。

遺伝的な有利不利は、世代ごとに積み重なる複利計算で働くため、適応がネズミ算的な想像以上のスピードで進むことは、実際にずっと前に計算していたのだ。

瞳の色のほうが適応で説明できないから謎なんだと。なるほど。

 

Natural History Museum公式(いろいろ画像あり)

 

ワシントンポストにはこのニュースに対する反応の記事があった。

Meet Cheddar Man: First modern Britons had dark skin and blue eyes

それにしても、チェダーマンと聞いて思い浮かべるものは世界で共通らしい。

 

*1:この情報はy-str.orgより。以下も同じ。

『核DNA解析でたどる日本人の源流』斎藤成也

遅ればせながら。

出てることに気づいた瞬間に売り切れてた。つまり出版社の予想より売れたわけだ。

核DNA解析でたどる 日本人の源流

核DNA解析でたどる 日本人の源流

 

目次は以下の通り。

1章 ヒトの起源―猿人、原人、旧人、新人…人類はいかに進化してきたのか
2章 出アフリカ―日本人の祖先は、アフリカ大陸からどう移動していったのか
3章 最初のヤポネシア人―日本列島に住むわれわれの源流を探るアプローチ法とは
4章 ヤポネシア人の二重構造―縄文人弥生人は、いつ、どのように分布したのか
5章 ヤマト人のうちなる二重構造―従来の縄文人弥生人とは異なる「第三の集団」の謎
6章 多様な手法による源流さがし―Y染色体ミトコンドリア、血液型、言語、地名から探る

 

紹介するだけなら簡単。

しかし、自分のスタンスでは具体的な中身に踏み込む必要もあり、気軽に書けない。(もう速報の意味はないし)

特に今回は、実際のデータを見たり、正式に論文になった時点でまとめ直すべき部分もあるため、そこはそのタイミングで記事にしよう。(新しいデータがあるか調べたら、まだ論文としては出て無いらしく、発見できなかったものがいくつかある)

まあ、今後もずっと新しい論文やデータは出てくるわけでもあり、題材としては適当に(時には違う論文やデータの登場を待ったりしつつ)追跡していくわけです。

なお、我がサイトとテーマが重なるわけだから、先に記事にしてる題材も多い。「ニュース:現生人類、「出アフリカ」は一度だけではなく、約12万年前から始まっている 」など。

 

ここで、検索したら出てきた、斎藤教授に直接話を聞いている(よって、この話部分がより最新の斎藤教授の考え)、本の紹介記事もまとめておく。

読売(以下、リンクが死ぬこともあるため、URL違いの同じ記事を二つ貼る)

「縄文人」は独自進化したアジアの特異集団だった! : 深読みチャンネル : 読売新聞(YOMIURI ONLINE) 1/4

「縄文人」は独自進化したアジアの特異集団だった! : 深読みチャンネル : 読売新聞(YOMIURI ONLINE) 1/4

最初のいきさつや既知の情報は飛ばして、3ページ目から抜粋しつつ考察する。

 また、縄文人のDNAがアイヌ、沖縄の人たち、本土日本人(ヤマト人)の順に多く受け継がれ、アイヌと沖縄の人たちが遺伝的に近いことが確かめられた。ヤマト人が縄文人から受け継いだ遺伝情報は約12%だった。「その後、核DNAを解析した北海道・礼文島の船泊遺跡の縄文人骨(後期)でも同じような値が出ているので、東日本の縄文人に関してはそんなにずれることはないと思う」。アイヌと沖縄の人たちの遺伝情報の割合についてはヤマト人ほどくわしく調べていないとしたうえで、「アイヌ縄文人のDNAの50%以上を受け継いでいるのではないかと思う。沖縄の人たちは、それより低い20%前後ではないでしょうか」と推測する。

三貫地貝塚縄文人を調べて、「ヤマト人が縄文人から受け継いだ遺伝情報は約12%」というのは、やはり注意が必要だった。

「北海道・礼文島の船泊遺跡の 縄文人骨(後期)でも(三貫地貝塚縄文人と)同じような値」(本には他の東日本の縄文人も傾向は似ているとある)ということは、やっぱり、東日本の縄文人アイヌに近いと言ってるわけだ。

ただ、「同じような値」「傾向」「似ている」「近い」という表現はあいまいだ。

ここは実際に、いろいろな東日本の縄文人を場所と年代ごとに調べて、どのぐらい同じでどのぐらい違うのか/どう変化しているかが問題になるところだろう。(それで詳細データが見たかった)

それに当然、「西日本の縄文人はどうなんだ?」って疑問が出るでしょう?

これもやっぱり、実際に調べて比較しないとわからないわけだ。

 

また、実はこの本以前の『日本列島人の歴史』斎藤成也で「三段階渡来モデル」を知った時点(記事にしてる。出雲はさらにその前回)でも認識してるべきだった内容(問題)もあった。

4ページ目。

日本列島への渡来の波、2回ではなく3回?

 斎藤教授は、この「うちなる二重構造」をふまえた日本列島への「三段階渡来モデル」を提唱している。日本列島への渡来の波は、これまで考えられてきた2回ではなく3回あった、というシナリオだ。

 第1段階(第1波)が後期旧石器時代から縄文時代の中期まで、第2段階(第2波)が縄文時代の後晩期、第3段階(第3波)は前半が弥生時代、後半が古墳時代以降というものだ。「第1波は縄文人の祖先か、縄文人第2波の渡来民は『海の民』だった可能性があり、日本語の祖語をもたらした人たちではないか。第3波は弥生時代以降と考えているが、7世紀後半に白村江の戦い百済が滅亡し、大勢の人たちが日本に移ってきた。そうした人たちが第3波かもしれない」と語る。

 このモデルが新しいのは、「二重構造モデル」では弥生時代以降に一つと考えていた新しい渡来人の波を、第2波と第3波の二つに分けたことだという。この二つの渡来の波があったために「うちなる二重構造」が存在している、と斎藤教授は説く。

「三段階渡来」ということは、最初の段階のいわゆる「縄文人」でも、三段階目のいわゆる「弥生人」でもない、縄文時代の途中にやってきた二段階目がどういう人たちかが問題だったわけだ。

そしてこれは結局、後のアイヌ語圏(アイヌ語地名の残る東日本)と、後の日本語圏(西日本)の問題とも関わってくる。アイヌ語と日本語の境目が「いつ・どのように」成立したか、そして年代によってどう変化しているかが問題になる。

そしてここに、重要なパズルのピースとして第二段階目の人々も関わってくる可能性がある、というわけだ。

縄文時代は、氷河期が終わって温暖化していくマクロな環境変化があるわけで、それによって自然植生も変わり、必然的に生活環境も変わって、人の境目が動くことも考えられる。狩猟採集民にとって自然植生の違いはライフスタイルの違いそのものなのだから。

またこのとき、標高によっても気温は変わるわけであり、関東や中部の高地も東北寄りの環境を持っていた(後の時代まで多少維持していた)だろう。山岳地帯と海岸部では状況が違っていたり、交流したり混ざったり事情が複雑だった可能性もあるわけだ。

そしてこの地域(中央高地東山地方など)が、個性的な土器文化*1があったりY染色体ハプログループD1b2*2が多めだったり(これも以前の記事)、富士浅間信仰諏訪信仰白山立山御嶽信仰飯縄権現など重要な山岳信仰の存在する地域でもある。「境目が面白い」んですよ。*3 

ところで、今回と前回の三段階渡来モデルの内容を比較すると、年代や範囲などで部分的な修正もある。おそらくしばらくは、「三段階渡来モデル」は現在進行形で修正されていくだろう。だからまだ、細かい部分にこだわる必要はなさそうかな。

最新の知見で内容が修正されることは当然ある(特に年代は変わりやすく、必然的に一部の考古学的証拠との対応が変わる)。さらに、まだ決定的証拠のない場合も多く、同時に複数の可能性を考えている場合もあったりするわけだ。

ただし根本的なところで、渡来の段階分けが「どんな基準で何段階に区切られる*4のが妥当か」には、不明要素も疑問要素も多いところ。

 

そしてこのインタビューには、「第3波は弥生時代以降と考えているが、7世紀後半に白村江の戦い百済が滅亡し、大勢の人たちが日本に移ってきた。そうした人たちが第3波かもしれない」という部分もあった。

これは実際は、他の移民を全部含めた話をしたつもりか。

ただここで、百済滅亡と直接の関係はないが、桓武天皇(737-806)のことも思い出した。このお方は、日本人の遺伝を語るなら覚えておかなければならない。

この桓武天皇は、母が百済系氏族出身(母・高野新笠の九代前が百済武寧王*5の子とされる純陀太子だという)で、なおかつ、あらゆる源氏平氏最も近い共通祖先(MRCA)に当たる人物であり、日本人に遺伝的にそれなりの影響を残しているはずなのだ。(一部の自称源平氏族が実際には無関係だったとしても)

なお、桓武天皇は、ゲノム全体を見れば百済の影響はあるが、父系Y染色体も母系ミトコンドリア百済系統を受け継いでいない(染色体の乗り換えが起こっていないならば)、ということにもなっている。また、高野新笠の母は土師氏出身(後にこの土師系一派が大江(大枝)氏とされる)だったり、この一族は何世代も前に日本に土着しており、高野新笠百済系の度合いはそれほど高くなさそうだ。

 

まだ話は終わりじゃないですよ。 最後に期待していた話がある。

 古代人と現代人はDNAでつながっているため、現代人を調べることも重要になってくる。「いま『島プロジェクト』を考えています。島のほうが、より古いものが残っているのではないかと昔から言われている。五島列島奄美大島佐渡島八丈島などに住む人たちを調べたい。東北では、宮城県の人たちを東北大学メディカル・メガバンクが調べているので、共同研究をする予定です。日本以外では、中国・上海の中国人研究者に依頼して、多様性のある中国の漢民族の中で、どこの人たちが日本列島人に近いのかを調べようとしています」と語る。

ぜひ調べてください!

筆頭が注目の五島列島で、八丈方言の八丈島もある。

名前のないところでは、瀬戸内海の島々(特に国産み神話の淡路島)や、黒曜石の伊豆諸島神津島とか、出雲の古い状況が出そうな隠岐島も面白そうだが、入っていてくれるだろうか。

そして中国とも協力するそうだ。(でも漢民族対象なのね)

 

わ、もうすぐ新年だ。

来年も良いお年を。 

 

*1:そういえば、目の下に入れ墨の入った山梨の人体文様入り土器だとかは、問題となる約4500年ほど前のものとされていた。

*2:船泊遺跡で一人だけY染色体が分析できて、このD1b2aと判明してる。(リンク

*3:私の先祖はこの山梨県赤烏元年の呉鏡も出た丘の上の大塚集落)出身で、ついでに青木ヶ原樹海の九一色衆の流れだったりもします。自分自身の出生地は全然違う場所だけれど。

*4:そこまではっきり分けられない可能性もあるだろう。

*5:生まれた場所は日本の筑紫の各羅嶋とされ(それで「嶋王」とも)、墓を調査したところ、その棺にも日本産コウヤマキが使われていたという人物。

中国古代文明側の可能性追求――遼寧省錦州市のY染色体ハプログループC1a1の由来はどこにある?

つづきを予告していた記事です。

Liaoningさんと東京の4人との分岐年代は5500年以上前を示唆するか*1」ということになると――その約5500年前あたりにC1a1が中国側から日本へ渡来した/中国側のどこかでC1a1が分岐した可能性はあり得るのか?

 

なお今回の記事は、自動的に、C1a1限定の話でなく――5500年前程度の時代に、中国側から日本へ何者かが渡来した可能性はあるか?――を追求するためのリストにもなっている。

また、話の展開で、イネなど栽培植物がどのように伝播しているのかもちらっと触れることになる。

そしてさらにこれは、自動的に中華文明の形成を探る話に繋がっていくことにもなる。

実はこの約5500年前あたりという年代が、ちょうど面白い時代に当たっているわけだ。

*1:原文では、「I suspect the findings suggest it has been about 5,500 years or more since you last shared a common grandfather with the 4 Japanese men. 」

続きを読む